源頼朝が鎌倉を目指したわけを鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」より探ってみる。
本サイトのタイトル(歴史史料を読み解く)にあるように歴史史料から歴史を学ぶというのが目的なので、
途中少し難解な文章になるが、史料読解を学びつつ進めてみる。
治承四年(一一八〇)八月、平氏追討の挙兵に踏み切った源頼朝は、流人生活をおくっていた地の近くに拠点を構える伊豆国目代の山木兼隆を襲撃した。
首尾よく山木兼隆を討ち取った頼朝は、挙兵に呼応した三浦半島の豪族、三浦一族と合流するため、東方の相模国へ向け進軍した。この頼朝の動きに対し相模国から大庭景親率いる平氏方の軍勢が頼朝を討伐するため西へ攻め込んだ。
両軍は相模国の石橋山で激突し合戦になった(石橋山の合戦)。
この戦いに敗れた頼朝は真鶴岬から船に乗り、安房国へ命からがら落ちのびていった。
安房国へ逃れた頼朝は、態勢を立て直すべく、下総国の千葉常胤・上総国の上総介広常を味方に引き入れるべく使者を遣わした。
さっそく千葉常胤は頼朝に味方する事を了承し、下記の言葉を述べた。
『吾妻鏡』治承四年(一一八〇)九月九日条
「当時御居所非二指要害地一。又非二御曩跡一。速可下令レ出二相模国鎌倉一給上。常胤相二率門客等一。為二御迎一可二参向一之由申レ之。」
(実際の史料は縦書きだが、投稿は横書きなので、見づらいのはご容赦願いたい。)
史料に見慣れていないと、漢字の羅列で助詞も無く意味がわからない。
またところどころに小さい記号「レ」「二」「一」「上」「下」「-」が付されている。
これは当時(平安時代末期)の文章が変則的な漢文(本来の漢文法から大きく崩れた日本独自の文法)を用いていたからで、口語訳をするには適宜、返り点(レ点)(一二点)(上中下点)を付けて読みやすいように補う必要があった。この点が歴史史料の理解を難しくしている。
ただ当時の歴史を知るには避けて通れないので、まずはこれらの返り点に慣れる必要がある。
返り点は縦書きだと文字の左下に付される。横書きだと文字の右横。
今回取り上げた「吾妻鏡」治承四年九月九日条の最初の返り点は、「非二」の「二点」である。「二点」は「一点」の後に読む。つまり「地一」の後となる。返り点に従うと「非二指要害地一」は「指したる要害の地に非ず」となる(助詞は文脈から補う必要があり、慣れによる部分も大きいのでここでは立ち入らない。いずれ機会を改めてまとめたい)。
次に「速可下令レ出二相模国鎌倉一給上」を訓読してみると「速やかに相模の国の鎌倉へ出せしめ給うべし」となる。「速」の後は、「可」に「下点」が付されているのでこの段階では読まず、次の「令」も「レ点」があるためまだ読まない。さらに「出」も「二点」が付けられているので「一点」の後になる。だから次の「相模の国の鎌倉一」を読んで「二点」の「出」、「レ点」の「令」、「上点」の「給」、「下点」の「可」の順になる。
この調子で進めていくと、「常胤相二率門客等一。」は、「常胤」の次の「相」と「率」の間に「‐」(ハイフン)と「二点」があるので、「相率」でセットとなる。つまり「常胤は門客等を相率いて」となり、「為二御迎一可二参向一之由申レ之。」は「お迎えのため参向すべきの由、之を申す」となる。
全体をつなげてみると、「当時の御居所は指したる要害の地に非ず、また御曩跡にも非ず、速やかに相模の国の鎌倉へ出で令しめ給うべし、常胤は門客等を相率いて、お迎えのため参向すべきの由、之を申す」となる。
意味は千葉常胤が頼朝に対し、「現在居る場所は要害でも先祖ゆかりの地でも無いので、要害の地であり、先祖ゆかりの地である相模国の鎌倉へ、速やかに向かうべきである。常胤は門客等を率いてお迎えに参上するということを申した」となる。
つまり頼朝が鎌倉を目指した理由は「要害かつ先祖ゆかりの地」だったから、というのが史料に即した答えといえる。