史料講座 第7回.安房国へ落ち延びた頼朝のその後。

史料講座 第7回.安房国へ落ち延びた頼朝のその後。

 古文書や古記録は当事者間のやりとりや記録が目的のため、誰がどうした?誰に何をした?誰の話?という主語の省略されているケースがよくある。だから文章を読んでいても、書かれている状況の理解がしづらい。そこで石橋山の合戦で敗れ、安房国に落ち延びた頼朝のその後を追いつつ、主語の省略について考えてみようと思う。

『吾妻鏡』治承四年九月一日条

「治承四年(1180)九月大一日庚戌。武衛可御于上総介廣常許之由被仰合。北條殿以下各申然之由。爰安房國住人安西三郎景益者。御幼稚之當初。殊奉昵近者也。仍最前被御書。其趣。令旨嚴密之上者。相催在廳等。可參上。又於當國中京下之輩者。悉以可搦進之由也。」

 石橋山の合戦で大庭景親率いる平氏方に敗れた頼朝は、海路安房国へと逃れた。安房国へ無事たどり着いた頼朝は、早速反撃の行動に移る。

最初の「武衛可御于上総介廣常許之由被仰合。」は、武衛(頼朝)が上総介広常のもとへ御渡りになる事を仰合(御相談)になったという意味である。上総介広常は上総国(千葉県中部)の大豪族で三浦氏の親戚であった。裸一貫状態の頼朝はこの大豪族上総介広常を頼ろうと考えていた。この場面の主語は武衛(頼朝)と書いてあるので解りやすい。ただ文書によっては主語の無い書かれ方もある。そうした場合に主語を特定する方法の一つが、渡御(貴人のお出かけ)と仰合(御相談)などの敬語から人物を特定する方法である。上総介広常の許へ御渡りになることをご相談になる身分の者はこの場合は頼朝しかおらず、ここでは武衛(頼朝)という主語がなかったとしても頼朝だということがわかる。

そして「北條殿以下各申然之由。」。御相談を受けた北条殿以下の御家人達は良いでしょうと申した。

「爰安房國住人安西三郎景益者。御幼稚之當初。殊奉昵近者也。」。ここに安房国の住人安西三郎景益という者がいた。安西は御幼稚の当初、馴れ親しむ者だったという。この御幼稚だが、誰が幼い時という意味なのだろうか?「殊に昵近を奉る」とあるので、かつて安西が仕えていた人物ということになる。この場面は、安西を紹介するための文章で、頼朝とのつながりを説明している。だから御幼稚は、頼朝に対する敬語となる。「吾妻鏡」は頼朝に対し敬語を用いている。なぜなら「吾妻鏡」が鎌倉幕府関係者による編纂物だからである。かつて鎌倉幕府の将軍だった頼朝に対して敬語を付すのは当然だった。

 本文の続きに戻ると、「仍最前被御書。其趣。令旨嚴密之上者。相催在廳等。可參上。又於當國中京下之輩者。悉以可搦進之由也。」よってまっさきに御書を遣わされたという。御書の御も敬語でやはり頼朝を対象としている。だからここの主語も頼朝となる、この御書の内容は、令旨(以仁王の)は絶対なので在庁官人(安房国の)らを催促して参上させよ。また当国(安房国)中の京都から来た者はことごとく捕らえよということだった。なぜ京都から来た者を捕らえるのかというと、平氏(京都にいる)が頼朝を追って人が送りこまれる事を警戒していたからである。安房国へ逃れる事ができたとはいえ、一時も予断の許す状況ではなかった。

 短い文章で類例が少なかったが、このように古文書や古記録は、まず誰が(どういう組織が)何のために文書を書いたのか?を把握するところからはじまる。古文書であれば、まず差し出し人と宛先を見るとわかりやすい。古記録だと誰が記主か?記主の身分により、登場人物の敬称が変わるので、記主の立場(吾妻鏡の場合は鎌倉幕府関係者)を知っておく必要がある。厳格な身分社会だったので、古文書や古記録の中に登場する人物の敬称も書き手の立場によって変わっていく。そうした身分差を念頭におき、敬語に注意をしながら読んでいくと、誰がどうした?誰に何をした?誰の話?という主語の省略も理解しやすくなると思う。