史料に触れる(例えば源頼朝の鎌倉入り)

史料に触れる(例えば源頼朝の鎌倉入り)

2020年7月29日

日本有数の観光都市鎌倉の歴史は、

治承四年(一一八〇)十月の源頼朝の鎌倉入りに始まったといっても過言ではない。

頼朝は大倉に自邸(今の清泉小学校の位置)を構え、鶴岡八幡宮を材木座から現在地に遷宮した。

頼朝邸と鶴岡八幡宮は東西に隣り合わせで、ここを中心に頼朝に奉公する御家人達が館を建て、鎌倉に一大中世都市がうまれた。

源頼朝は源平合戦・奥州合戦など幾多の戦いを勝ち抜き、日本初の本格的な武家政権を鎌倉に樹立した。

頼朝の築いた政権はいくつかの画期的な要素を兼ね備えていた。

その中のひとつが、朝廷と遠く離れた地方(つまり中央ではなく)に拠点を構えたことである。

頼朝が育った平安時代末期までの日本社会は、朝廷を頂点としてピラミッドのように成り立っていた。これは身分だけでなく政治・経済などあらゆる面である。

しかし頼朝は鎌倉に拠点を構え、全国の騒乱を鎮めた後も、鎌倉から離れなかった。

朝廷から正二位の官位や権大納言の官職に任命されても動かなかった。

頼朝が鎌倉から離れず武家政権を運営し続けたことによって、鎌倉は御家人達の集住する武家政権の中心的な場所として発展した。これは頼朝死後も続いた。

鎌倉発展の意義は、朝廷とは別の巨大な組織ができあがり、京都以外に全国的な中心地がうまれたという点である。これは日本の歴史上これまでにない画期的なことであった。つまり武家政権は朝廷の一部であるけれども、距離をおいても成り立つ仕組みを築いた。そしてそれが江戸時代末の大政奉還まで七〇〇年近くも続いた。頼朝の時代はまさに武士の世のはじまりとなった。

このように頼朝の鎌倉入りは、後の日本の歴史にとてつもない影響を与えたのだが、

ところで、

なぜ頼朝は鎌倉を拠点としたのだろうか?

この問いに明確な答えをもって返せる人は少ないだろう。

そこで次回は、なぜ頼朝は鎌倉を目指したのか?

鎌倉時代の歴史史料「吾妻鏡」を史料読解しつつ探ってみようと思う。