人物紹介〜平将門〜

人物紹介〜平将門〜

 平将門は、平氏の祖、高望王の三男良将(持)の子で、平安時代中期に活躍した人物です。下総国を所領としていました。若くして上洛し、摂政・関白をつとめた藤原忠平に祗候しました。

 十数年在京の後に、下総国へ帰りましたが、東国で叔父国香や一族の良正・良兼らの同族争いに巻き込まれました。

 将門は次々と現れる敵対者を退けることに成功しましたが、その行動を朝廷に訴えられ、平安京の検非違使庁で訊問されました。しかし朱雀天皇元服の大赦により許され、なんとか罪人の汚名をかぶることを免れます。

 帰国した将門ですが、以前にも増して一族と対立する状況となり、ついに良兼を破りました。また武蔵国の紛争を調停するなど、東国で声望を高めていきます。この頃はまだ反乱者ではなく、朝廷に従った存在でした。

 やがて声望の高まった将門のもとには、頼ってくるものが現れ、その庇護のため、常陸の国府と衝突してしまいます。本意ではなく反乱者となってしまった将門は、下野国・上野国を襲い、新皇を称します。

 将門の反乱に対して朝廷は、藤原忠文を征東大将軍として東国に派遣しました。しかし藤原忠文が到着する前に、関東の武将、藤原秀郷や平貞盛らが将門方を破り、天慶三年(940)二月、ついに将門は討死しました。

 将門の乱は、奇しくも西国で起こった藤原純友の乱とあわせて、朝廷を驚かせました。この事件は、これほどの大乱は前例がなく、後代に与えた影響から、古くから注目をあびてきました。また朝廷に反乱をおこした人物というにも関わらず、東国各地に将門をまつる塚や伝説が生まれてきた。

 これらは将門を単なる反乱者ではなく、地域を擁護する存在として、敬い奉るという現れだといえます。つまり平将門の乱は、単なる朝廷への反乱以上に、東国という地域が抱える問題を含んだ事件だったのです。