人物紹介〜北条時政〜

人物紹介〜北条時政〜

 伊豆国田方郡北条の在地豪族。伊豆国田方郡北条は伊豆の国の国府三島に近く、北条は狩野川流域の交通の要衝にあたり、時政は在庁官人として国衙となんらかの関与をしていたと考えられている。ただ吾妻鏡以前の北条時政の生涯はよくわかっておらず、系図からは桓武平氏の子孫とされている。

 治承四年(一一八〇)、京都で以仁王が反平氏の狼煙をあげ敗退すると、以仁王を支援した源頼政の知行国伊豆は親平氏方の平時忠に交代した。このため平氏に連なる同じ伊豆国の伊東氏の力が強まり、北条氏の立場は微妙なものとなった。

 同年八月、北条時政は頼朝とともに挙兵し伊豆国の目代山木兼隆を討った。挙兵後は一貫して娘婿の頼朝に与した。

 平氏滅亡後に起きた頼朝と義経の争いでは、頼朝追討の宣旨に対処するため兵を率いて上洛した。そして義経らを追捕するため守護・地頭の設置を朝廷に認めさせた。同時に時政は京都の治安維持も担い、平氏滅亡・義経らの策動など不穏な京都の情勢を静めることにつとめた。四ヶ月ほど滞在の後、後任の一条能保に任せ、一族の北条時定以下を洛中の警護に残して鎌倉へ帰った。

 鎌倉帰還後は建久四年(一一九三)に起きた曾我兄弟の仇討ちや安田義定の処罰への関与を指摘されているが真相は不明である。しかしともに事件後、伊豆国・遠江国で時政は勢力を伸ばしており、徐々に策謀家としての影を帯びはじめていく。

 頼朝死後も梶原景時の失脚・比企の乱に関わり他氏を排斥して北条氏の権力基盤を高めていく。遠江守・政所別当への就任、嫡子義時の相模守補任など幕府内で確固たる地位を築くが、幕府創成の功臣畠山重忠を滅ぼし、将軍実朝を排斥する企てが露顕(牧氏の変)して嫡子義時と対立・失脚した。そのため伊豆国に隠居させられた時政だが、建保三年(一二一五)北条の地で七十八年の生涯を終えた。

 伊豆国北条に今も残る北条氏の菩提寺願成就院には、時政の木像が安置されている。