鎌倉時代を理解するには平安時代を知る!!~政治(藤原摂関家)~

鎌倉時代を理解するには平安時代を知る!!~政治(藤原摂関家)~

2020年10月6日

日本初の本格的な武家政権の時代といわれる鎌倉時代だが、すべては平安時代の延長にあるといってよい。特に平安時代末期を理解することが鎌倉時代を知る早道である。ただし一口に時代といっても政治・経済・文化など時代を構成する要素は多い。そこで何回かにわけて時代について述べていく。今回は「政治」にかかわる内容をまとめてみる。

 政治については以前「院政」に焦点をあてて述べたので、今回は平安時代末期の藤原摂関家について簡単に触れる。

 平安時代というと貴族・藤原氏・平等院というキーワードを思い浮かべる方が多いだろう。摂関政治の最盛期を築いたのが平安時代中期に活躍した藤原道長だった。藤原氏は天皇の外戚となることで朝廷を掌握し絶大な権力を誇った。道長の子頼通は長く摂政・関白の要職に就き、娘を後冷泉天皇に入内させたが、子に恵まれることなく天皇は崩御した。次に即位した後三条天皇は、藤原摂関家の外戚にあたらない生まれで、大江匡房や藤原実政などの中級貴族を登用し、積極的に親政を行った。

 数々の施策をおこなった後三条天皇は、再び藤原摂関家を外戚としない貞仁親王(白河天皇)に皇位を譲り、自らは上皇となって院政を開始しようとした。しかし譲位後まもなく崩御したため、院政は白河上皇によって本格的な実現をみることとなった。こうした天皇・上皇の台頭により、政治の中心から遠ざけられたように思える藤原摂関家だが、この間も摂政・関白の地位には就いており、白河上皇もその存在を重んじるなど依然巨大な権門として一定の影響力は誇っていた。

 藤原摂関家の弱体化はむしろ藤原頼通の子師実とその子師通父子の相次ぐ死により若年の忠実が摂政をつとめざるを得なかったことが原因である。政治力に長けた白河上皇による院政が摂関政治を凌駕し、摂関の地位低下は明らかとなった。さらに忠実は白河法皇の怒りを買い十年もの間、宇治に謹慎を強いられた。

 この間、忠実の嫡子忠通が関白を務め、なんとか藤原氏は摂関の地位を保持していた。しかし父の忠実が白河法皇の崩御とともに政界に復帰し、子のなかった忠通に自身の三男頼長を養子にさせた。まもなく忠通に子が生まれると頼長の縁組は破棄され、以降忠通と忠実・頼長の対立がおこった。この摂関家の分裂が保元の乱を引き起こす一因となった。

 こうした藤原摂関家の内紛は、武士の台頭を許し保元の乱・平治の乱を武力によってくぐりぬけた平清盛率いる平氏が朝廷の要職に就く原因となった。

 忠通が没した後は子の基実が継承した。基実は平清盛の娘盛子を正室に迎え、摂関家の地位を保ったが早世したため基実の弟基房が、幼少の基実の嫡子基通が一人前になるまでの中継ぎとして摂関を務めた。

 頼朝が平氏追討の挙兵に踏み切った治承四年は、平清盛によって前年関白に就いた基通が安徳天皇の即位にともない摂政となっていた。しかしこの頃の藤原摂関家は平氏の後援がないとその地位を保てないほど影響力を失っており、木曽義仲の入京では基房の子師家が摂政に任命されるなど、揺れ動く社会情勢に左右されるよう状態であった。そして藤原摂関家は、近衛家・松殿・九条家と分裂していった。

 このようにかつて栄華を誇った藤原摂関家は、武士の世になると政治力を失い、高貴な血筋と有職故実を伝える名門としてその命脈をなんとか伝えていった。