人物紹介~大庭景親~

人物紹介~大庭景親~

 大庭景親は桓武平氏良文流鎌倉氏の一族で、相模国大庭御厨の下司職を務めていた。御厨とは伊勢神宮の荘園のようなもので、景親は荘官的な任務を預かっていたと思われる。

 保元の乱では、東国武士を率いた源義朝に属した。続く平治の乱での動向は明らかではないが、同じ相模国の豪族である三浦氏や中村氏が源義朝に従ったため、乱後、苦境に立たされるのとは違い、平氏に接近して勢威をふるった。

 以仁王の乱の勃発時に、景親は在京しており、平氏方の一翼を担い以仁王・源頼政らを破った。その後も京に残り、平氏の家人伊藤忠清から頼朝と北条時政による謀反の企てを知らされる。

 八月二日に相模国へ戻った景親は、挙兵の企てに参加の意を示していた佐々木秀義を招き、謀反の疑いに対する相談をした。景親から相談を受けた佐々木秀義は驚き、頼朝に知らせた。

 その後、頼朝が伊豆国目代の山木兼隆を討ち挙兵すると、これを鎮めるために景親は、平氏勢を率いて相模国を西へ進んだ。

 相模国と伊豆国の国境近くの石橋において、両軍は激突。頼朝は大敗し、海路安房国へ落ち延びた。房総半島に逃れた頼朝が予想以上の勢いで反撃を開始し、都の平氏方から派遣される追討軍が遅れると、景親は頼朝方に対抗できない状態となった。

 平維盛率いる追討軍がようやく駿河国に到着すると、景親は合流をこころみるが、頼朝方に行手を塞がれ、相模国河村の山中に逃げ込んだ。

 十月二十三日景親は降伏し、上総介広常に身を預けられる。そして三日後に片瀬川で処刑・梟首された。