鎌倉悪源太義平は頼朝の異母兄です。母は三浦義明の娘と伝わっていますが、検討を要するようです。
義平は父義朝が上洛した後、鎌倉の館を譲られ、坂東で活躍しました。
平治の乱を描いた軍記物語では南坂東の兵と共に平安京に入り、合戦で大活躍する義平の姿が描かれています。この合戦が初陣だった頼朝は、6つ上の兄の勇姿を羨望の眼差しで見つめていたのではないでしょうか?
平治の乱は大きく2段階にわかれます。
①、藤原信西を討つ。
②、①を成し遂げた者の分裂により平清盛が登場し収める。
①を成功させた恩給で、
頼朝は従五位下右兵衛権佐(じゅごいのげうひょうえのごんのすけ)に任命されました。
このため大河ドラマでは「佐殿」(すけどの)と呼ばれています。
源義朝の沼浜邸があったとされる逗子市沼間には、義平の菩提を弔うために建てられたと伝わる光照寺があります。
御寺の裏側を流れる田越川を矢の根川といい、初夏には蛍が飛び交うようです。
伊豆国に流人となった頼朝は毎日読経を欠かしませんでした。
読経の際にも平治の乱で戦う、義朝・義平の姿が脳裏を離れなかったでしょう。
義朝と義平の沼間に残る伝承は、そんな頼朝の脳裏とわずかに重なるような気がする場所でした。