前々回は、頼朝が大倉邸を建設した過程を辿りました。今回はその続きを見てみようと思います。
新邸完成の翌年、頼朝は娘大姫の小御所と御厩を建てるよう命令しました。『吾妻鏡』治承五年(一一八一)五月二三日条「御亭之傍、可被建姫君御方并御厩、」。
そして大姫の小御所は同年六月一三日に完成し、大姫は引っ越しをしました。(「新所御移徙也」)。
また『吾妻鏡』元暦元年(一一八四)八月二四日条には、政務機関の公文所(後の政所)が建てられました。「被新造公文所、今日立柱上棟、」。
さらに同年一〇月二〇日条には、訴訟を取り扱う問注所を、御所の東面廂二間に開設しました。「諸人訴論対決事、相具俊兼・盛時等、且召决之、且令注其詞、可申沙汰之由、被仰大夫属入道善信云々、仍點御亭東面廂二ケ間、為其所、号問注所、打額云々、」。
徐々に鎌倉幕府の機構が整っていく様子がわかります。
しかし建久二年(一一九一)三月四日の大火で、順調に拡張していた大倉邸は燃えてしまいました。このため頼朝は一時、甘縄の安達盛長邸に移ったといいます。
大倉の地では、頼朝邸の再建がはじまり、寝殿・対屋・御厩が完成し、頼朝は引っ越したとあります。『吾妻鏡』建久二年(一一九一)七月二十八日条に「寢殿『吾妻鏡』對屋御厩等造畢之間、今日御移徙之儀也、」。
また頼朝の大倉邸付近に、御家人達の門扉が軒を連ねたといいます。この御家人達の館については、前回とりあげた畠山重忠邸や三浦一族の邸宅・大江広元邸がありました。