源頼朝の大倉邸付近に建てられた御家人の邸宅

源頼朝の大倉邸付近に建てられた御家人の邸宅

 源頼朝が建てた大倉邸の付近には、御家人達の門扉が軒を連ねたといいます。今回はこの御家人達の館について取り上げます。

畠山重忠邸

 はじめに鶴岡八幡宮から、東の頼朝の大倉邸方面へ出てすぐに、幕府創成期の功臣「畠山重忠の屋敷跡」が伝わっています。畠山重忠は、鎌倉幕府創成期に活躍した御家人の一人で、頼朝が伊豆で挙兵した時、17歳だったといわれています。この時、重忠は、父の重能が京都大番役で不在だったことから、一族を率いて平家方に属しました。そして頼朝方の三浦一族と由比ヶ浜で合戦し、撤退する三浦一族を追って三浦氏の根拠地衣笠城を落とし、惣領の三浦義明を討ち取りました。しかし頼朝が房総半島から反撃を開始して北上すると、参陣を促されて、頼朝に帰服しました。頼朝の鎌倉入りでは先陣を預かりました。その後、木曽義仲追討や平家追討・奥州合戦など、頼朝方の主要な合戦のほとんどに従軍して、目覚ましい働きをしました。頼朝は亡くなる間際に「子孫を守護するよう」、重忠に遺言したといいます。まさに鎌倉幕府創成期における功労者の一人だったといえます。

三浦一族の邸宅

 畠山重忠と同じく、鶴岡八幡宮と頼朝大倉邸の間に位置する、現在の附属鎌倉小・中学校付近に、三浦一族の屋敷があったといわれます。畠山重忠と三浦一族は、因縁の関係にありましたが、治承四年(一一八〇)に頼朝が重忠の参陣を促した際、三浦義澄に遺恨を捨てるよう説きました。三浦氏は三浦半島随一の豪族で、治承四年(一一八〇)八月に伊豆国で頼朝が挙兵すると、これに呼応して兵を挙げました。北条氏と並ぶ頼朝旗揚げ当初からの功臣です。衣笠城で討死した義明の跡を継いだ三浦義澄は、数々の合戦に従軍して手柄を立て、北条氏と婚姻関係を結びました。鎌倉幕府内では、創成期の宿老として重きをなす存在でした。源氏将軍が三代で絶えた後に起こった宝治合戦で、三浦一族は北条氏によって討たれてしまいます。宝治合戦で三浦一族が立て籠もり果てた場所は、頼朝の法華堂でした。頼朝の法華堂は、三浦一族の邸宅とされた場所からも近いところにあります。法華堂は三浦一族滅亡の場所でもあったのです。法華堂の後ろの山には、三浦一族を供養する石塔が置かれているやぐらが伝わっています。

大江広元邸

 畠山重忠や三浦一族の邸宅からは少し離れますが、大倉の頼朝邸から東の十二所方向へ向かい明石橋を渡った住宅地に、大江広元邸宅跡(鎌倉市十二所921−3)の石碑が建てられています。大江広元の屋敷跡については、この場所に存在したという実証は無く、近くの明王院付近に広元の墓と伝えられる石塔があるため、このように考えられたといいます。 大江広元は京都の下級貴族でしたが、頼朝の招きで鎌倉へ下り、鎌倉幕府の公文所や政所の別当(長官)に任命されるなど、実務官僚として頼朝の信頼をあつめました。頼朝死後も鎌倉幕府の政務を担って活躍した人物です。

 このように大倉の頼朝邸周辺には有力な御家人達が集住し、幕府に勤めました。鎌倉にはここで取り上げた御家人以外の邸宅も、判明している邸宅があります。これらを調べて鎌倉散策するのも、歴史を楽しむ一つだといえます。