前回は、源為義が義親の子ではなく、義家の子だとする「源義忠の暗殺と源義光」佐々木紀一氏(山形県立米沢女子短期大学紀要45、平成二十一年十二月)を基に、源為義の出自をまとめました。佐々木氏はこの論文の後、為義が義家の子となると、真相が解明されていない「偽義親暗殺事件」の首謀者も、為義の可能性が高いと述べています(「偽義親暗殺事件と源為義」)。そこで今回も佐々木氏の研究を基に、偽義親の暗殺について簡単に述べていきます。
源義親は天仁元年(一一〇八)一月に平正盛によって追討されたといいます。しかし義親の確実な死に疑問を持つ向きがあったためか、永久五年(一一一七)、保安四年(一一二三)と十年以上経った後も、義親を名乗る者が後を絶ちませんでした。
大治四年(一一二九)九月には、義親を名乗る者が東国より入京したといいます。この人物は公的な承認を求めたとされ、鳥羽院は摂関家の藤原忠実に身柄を預けました。
これに対して、もう一人の義親を名乗る人物が京都にあらわれます。この新しい義親の登場に驚いた東国から入京した義親を名乗る人物は、新しく義親を名乗る人物を急襲し、偽だということを認めさせました。
こうして義親を名乗る人物は、東国から入京した者だけとなりましたが、一か月後この人物は、検非違使源光信の郎等によって討たれてしまいます。
佐々木氏は義親が生存することによって一番困るのが、義親・義忠の死によって義家の四男でありながら、河内源氏の当主に納まっていた為義だと述べます。
確実な史料がなく真相はわかりませんが、この当時の河内源氏の動向と偽義親の登場は、非常に面白い歴史のミステリーだといえます。