今回は。隅田川までやってきた頼朝が、鎌倉を目指す途上で、対平氏戦略を示した箇所を読み解いてみます。
原文は「吾妻鏡」治承四年九月二十日条
「治承四年(1180)九月大廿日己巳。土屋三郎宗遠為二御使一向二甲斐國一。安房。上総。下総。以上三箇國軍士悉以参向。仍又相二具上野。下野。武藏等國々精兵一。至二駿河國一。可レ相二待平氏之發向一。早以二北條殿一為二先達一。可レ被レ来二向黄瀬河邊一之旨。可レ相二觸武田太郎信義以下源氏等一之由云々。」
まず訓読をあげ、現代語訳にしていきます。
「治承四年(1180)九月大廿日己巳。土屋三郎宗遠為二御使一向二甲斐國一。」
九月二十日。土屋三郎宗遠、御使として甲斐国へ向かう。
九月二十日。土屋三郎宗遠が使い(頼朝の)として、甲斐国へ向かった。
「安房。上総。下総。以上三箇國軍士悉以参向。」
安房、上総、下総、以上三カ国の軍士はことごとくもって参向す。
安房、上総、下総の以上三カ国の軍士はことごとく(頼朝のもとへ)参上した。
「仍又相二具上野。下野。武藏等國々精兵一。至二駿河國一。可レ相二待平氏之發向一。」
よってまた上野・下野・武蔵等の国々の精兵を相具し、駿河国に至り、平氏の発向を相待つべし。
よってまた上野、下野、武蔵等の国々の精兵を伴い、駿河国へ行き、平氏の軍勢を迎え撃つつもりである。
「早以二北條殿一為二先達一。可レ被レ来二向黄瀬河邊一之旨。可レ相二觸武田太郎信義以下源氏等一之由云々。」
早く北条殿をもって先達とし、黄瀬川辺に来向せらるべきの旨、武田太郎信義以下の源氏等に相触れるべきの由と云々。
早く北条時政の案内で、黄瀬川辺りに来られるということを、武田太郎信義以下の源氏等に触れるようにという命令だったらしい。
つまり頼朝は、房総半島の兵を従えた今、上野・下野・武蔵の兵も率いて、駿河で平氏を迎え討つ作戦をたてていたことがわかります。ここに相模が含まれていないのは、大庭景親率いる平氏方が存在していたからです。
そして北条時政を案内者として、武田信義に源氏を率いて黄瀬川で合流するよう伝えました。
ここから頼朝は、武田信義以下の甲斐源氏を頼みとしていたことがわかります。なんとしても武田の力が必要だからこそ、北条時政を彼の方面に遣わしていたのだと考えられます。
この対平氏戦略の後、頼朝の作戦通りに歴史は推移していき、有名な富士川の戦いにつながります。