日本初の本格的な武家政権の時代といわれる鎌倉時代ですが、すべては平安時代の延長にあるといえます。特に平安時代末期を理解することが鎌倉時代を知る早道です。ただし一口に時代といっても政治・社会・経済・文化など時代を構成する要素は数多くあります。そこで何回かにわけて、平安時代について述べていきます。今回は「社会」にかかわる中でも「平治の乱」についてまとめてみます。
源頼朝について書かれている本のほとんどが、平治の乱で敗れ伊豆国で流人生活をおくったという話からはじまっています。そもそもこの平治の乱とはどのような出来事だったのでしょう?
・平治の乱とは?
平治元年(一一五九)に平安京で勃発した内乱です。
・どのような戦いだったの?
戦いは次のように大きく分けられます。
第一幕は、藤原信頼と源義朝VS藤原信西。
第二幕が、藤原信頼と源義朝VS平清盛。
実務官僚藤原信西による政治に不満を持つ藤原信頼が、平治元年十二月九日、平清盛が熊野詣で都を離れている隙をつき、源義朝と語らい御所を襲撃します。そして天皇以下を確保し、藤原信西を自害に追い込み政権を握りました。これが第一幕です。
次に藤原信頼や源義朝に反感を持つ貴族達が、密かに天皇を帰京した平清盛の邸宅へ移します。官軍となった清盛方は、信頼・義朝の追討命令を下し打ち破りました。これが第二幕となります。
義朝は、東国へ落ち延びる途中、尾張国でかつての家人長田忠致の裏切りに遭い、殺害されてしまいます。
義朝の嫡子、頼朝は近江国で父とはぐれ、京都へ連行されました。斬首される運命でしたが、池禪尼(清盛の継母)や上西門院(鳥羽天皇の娘)の働きかけにより、伊豆国へ流罪となりました。
・平治の乱は社会にどのような影響を与えたの?
保元の乱に続き、武力によって朝廷の体制が左右されるようになりました。つまり政権の安定に武士の武力が欠かせないようになったのです。
・ところで、なぜ平治の乱がおこったの?
この頃は、後白河上皇と二条天皇を頂点とする政治体制で、後白河上皇は二条天皇が即位するまでの中継ぎの天皇でした。このため後白河に仕える院政派と、二条天皇の親政派が対立するようになります。後白河の院政派には藤原信頼。二条天皇派に藤原信西がいました。この対立が乱のきっかけとなりました。
しかし乱で信頼・信西がともに亡くなり、源氏も没落したため、平清盛による平氏全盛の世がはじまったのです。