今の巨福呂坂は近代に開鑿された道で、
鎌倉時代の巨福呂坂は西側の峠を越えていたという。
鶴岡八幡宮の車払所を真っ直ぐいくのが今の巨福呂坂。車払所を左に折れたのが鎌倉時代の巨福呂坂だといわれている(今は宅地となり行き止まりで抜けられない)。
『吾妻鑑』仁治元年(一二四〇)十月十日条に、北条泰時の邸宅で、山内の道路を造るようにというご命令があった「於前武州御亭、可被造山内道路之由、有其沙汰」。
十月十九日条には、山内道路が造られたのは、ここがとっても険しく、往来の煩いになっているからだという「被造山内道路。是険難之間。依有往還煩也」。
この記録から北条泰時が巨福呂坂を整備したといわれている。
由比浦の港で荒浪の煩いを解決した北条泰時。この後、鎌倉と北鎌倉の険阻な坂を整備し、往来の難渋を取り除いた。父、義時亡き後、人々の煩いに向き合う政治を行った。その激動の生涯は2年後、60歳で惜しまれながら閉じる事となる。