前回までは「以仁王の乱」につながる「治承三年十一月の政変」について見てきました。その中で、平氏による朝廷構築が進む一方で、反平氏勢力の肥大化にも触れました。こうした世情の中で「以仁王の乱」は起こります。
突如おこなわれた臣籍降下と配流の宣旨
安徳天皇即位の一か月後の五月十日、突如として平清盛が福原から上洛します。清盛自身は翌日に帰ります。十四日に後白河法皇が幽閉を解かれ、鳥羽殿から洛中の藤原季能邸に移されました。
そして十五日夜に、以仁王の源姓への臣籍降下と土佐国配流が決定します。この処置をおこなうために、検非違使源兼綱と源光長が以仁王の住む、三条高倉の御所を取り囲みました。
しかしこの動きを事前に察知した以仁王は、逃走することに成功します。このため捜索は以仁王の養母八条院の御所にも及びました。八条院御所には平頼盛が向かい、御所内で以仁王の子息を探し求め出家させました。ただ一人、後に北陸宮と称され、木曽義仲に擁立される皇子はからくも逃れています。
舞台は園城寺へ
翌十六日、以仁王が園城寺に逃れていると伝わると、検非違使別当平時忠の使者と平宗盛配下の武士が園城寺に向かいます。しかし園城寺の大衆が以仁王の引き渡しを拒んだため、二十三日に平宗盛以下・頼盛・教盛・経盛・知盛・維盛・資盛・清経・重衡等の平氏一門と源頼政からなる武力攻撃が決定しました。しかし二十一日夜にこの中の一人、源頼政が突如近衛河原の自邸に火を放ち、以仁王に合力するため嫡子仲綱・養子兼綱ら50騎を率いて、園城寺に入り平氏に驚きを与えました。
京中騒動
五月二十二日に源頼政の翻意が伝わると、京中は騒動となりました。平氏は安徳天皇を大内から平時子の西八条邸に移し、高倉上皇を西八条邸から東隣の八条坊門大宮に移し、不測の事態に備えました。さらに後白河・高倉・安徳の福原下向の噂まで流れています。
交渉
源頼政の翻意が起ったため、園城寺への武力行使が延期となる中、二十四日に天台座主明雲が比叡山に登り、延暦寺の衆徒が以仁王に合力しないよう説得を行いました。この説得が効き、延暦寺は園城寺・興福寺による連合から離脱します。さらに園城寺内部でも分裂が起き、次第に以仁王と源頼政は追い詰められていきました。
さらなる逃走と宇治川合戦
こうした状況の変化により、このまま園城寺に留まり続けることに危険を感じた以仁王と源頼政は、二十五日夜に園城寺を出て興福寺へと向かいます。この報はすぐさま平氏方に伝わり、平氏家人の検非違使藤原景高・藤原忠綱ら300騎が出動しました。そして宇治橋の橋板をはずして平等院で休息していた以仁王と源頼政に追いつき、宇治川を挟んで合戦となります。景高の父景家は橋桁をつたって攻撃を繰り広げ、忠綱の父、伊藤忠清は川の浅瀬に馬をうち入れ、対岸に渡りました。
両軍によって平等院の前で激しい戦いが繰り広げられましたが、無勢の以仁王と源頼政方は、頼政・仲綱・兼綱が落命し、戦場から逃走をはかった以仁王も山城国相楽郡光明山寺の鳥居前で、討ち取られたといいます。
事件の処理
五月二十七日、高倉上皇の院御所で公卿議定が開かれ、園城寺と興福寺に対する処分が討議されました。すでに退散した園城寺については、張本人だけを逮捕することで一致し、興福寺に対しては、追討すべきという源通親・藤原隆季の強硬な意見と、まずは使者を派遣して事情を調査すべきという九条兼実らの意見が対立します。ここでは後者の意見が通り、とりあえずは穏便な対応に落ち着きました。しかし同年末に勃発する平氏による南都焼討の伏線は、すでに敷かれていたことがうかがい知れます。
以仁王、生存説
光明山寺の鳥居前で落命したと先述した以仁王ですが、確かな生死の確認がおこなわれなかったので、生存説が流布しました。さらに興福寺の動向も確かめられておらず、京都周辺の軍事的緊張は続きました。このため五月二十六日に再び福原から上洛した平清盛は、六月二日に後白河法皇・高倉上皇・安徳天皇を福原に移す事を決めています。
さらなる課題
以上、「治承三年十一月の政変」から「以仁王の乱」に至る様子と経過をみてきました。ここからわかるのは、平氏政権は朝廷を思いのままに動かしていたという一般的な印象とは異なる姿です。複雑な社会変化が平氏政権の舵取りを困難なものとし、課題解決に翻弄される様子が垣間見えます。
この課題解決を一層困難なものとしたのが、諸国の源氏による一斉蜂起です。そして蜂起をうながしたのは、「以仁王の令旨」とされています。しかし今回簡単に経過をみた「以仁王の乱」には、「以仁王の令旨」がいつ出されたのか?書いていません。なぜなら「以仁王の令旨」については、研究において議論が分かれているためです。令旨の真偽や出された時期など、難解な問題が残っています。そこで次回は「令旨の真偽」、次々回は「出された時期」について、簡単に触れてみたいと思います。