以仁王を深堀する

以仁王を深堀する

 今回、特集でとりあげた以仁王の何が歴史に大きな影響を与えたのかというと、彼が諸国の源氏に平氏打倒の蜂起を促した「令旨」にあります。「令旨」とは皇太子・三后(太皇太后・皇太后・皇后)の命令を伝えるために出した文書でした。この貴人による命令は、応じるものに正当性を与えたのです。つまり本来官軍である平氏を、逆賊として討伐する大義名分となりました。そこで今回は「以仁王という皇子の人物像」を深堀してみます。

後白河天皇と成子の子として生まれた以仁王

 以仁王は仁平元年(一一五一)に後白河天皇の第三皇子として生まれました。母は藤原季成の女(成子)です。異母兄に守仁(二条天皇)、同母兄に守覚法親王。異母弟に憲仁(高倉天皇)という当代随一の血筋を引いています。

母の父、藤原季成は藤原北家閑院流で正二位・権大納言まで昇り詰めました(加賀大納言と称す)。母の成子は鳥羽天皇の妃、待賢門院璋子の姪で、後白河天皇の従姉妹にあたります。後白河の寵愛を受け、妃の中では一番多くの子女を儲けました。亮子内親王(後の殷富門院)・好子内親王(伊勢斎宮)・式子内親王(賀茂齋院)・守覚法親王・以仁王・研子内親王(伊勢斎宮)等です。

境遇

母が早世した為、美福門院に養育された異母兄の守仁は、即位して二条天皇。平氏と血縁関係にあった建春門院の子、憲仁は即位して高倉天皇と、異母兄弟に比べると、血筋に見劣りのあった以仁は、即位の望みは薄く、幼くして天台座主最雲法親王の弟子となりました。しかし応保二年(一一六二)に最雲が亡くなると還俗して、八条院の猶子となります。

仁安元年(一一六六)に、母、成子の兄藤原公光が失脚して、権中納言・左衛門督を解かれると、以仁は親王宣下を受けることなく、皇位継承の可能性は消滅しました。

以仁王の子達

 鳥羽天皇と美福門院に愛され、膨大な遺産を受け継いだ八条院の元で育てられた以仁王は、民部大輔藤原忠成の娘との間に、後の天台座主・真性。高階盛章の娘との間に、早世した道性、同じく高階盛章の娘との間で、後の東寺長者道尊、母は不明だが後に園城寺に入った法円や仁誉、北陸宮と呼ばれた男子、高階盛章の娘との間に三条宮姫宮と呼ばれた女子を儲けました。

 こうした八条院との関係を基盤として家庭を築いた以仁王は、治承三年の政変によって朝廷を左右する平清盛による政治を批判し、翌年、謀反の罪で平氏によって追討され、王の子供達の人生も左右されることになります。