人物紹介〜木曽義仲〜

人物紹介〜木曽義仲〜

2020年10月26日

 文章がかたくわかりづらいという意見がございましたので、今回からちょっと文体を変えてみます。試行錯誤しながら、良いようにしていきます。

 さて今回とりあげる木曽義仲は、頼朝と同じ河内源氏の流れをくむ、源義賢の子として生まれました。源義賢は頼朝の父義朝の弟なので、頼朝と義仲は従兄弟同士でした。しかし義賢と義朝は兄弟にもかかわらず互いに対立していました。なぜなら当時の河内源氏は、八幡太郎義家の子義親の反乱や、若年で家督を継いだ為義の力量などにより、強力な統制力を持つ棟梁がおらず、一族は分裂と抗争を繰り返していました。平正盛・忠盛・清盛という圧倒的な求心力を持つ棟梁を立て続けに輩出した伊勢平氏に、大きく溝を開けられる状態でした。

 義仲の父義賢は摂関家でも藤原頼長に連なっていました。対する頼朝の父義朝は関東で独自の基盤を築いて上洛し、藤原頼長の兄藤原忠通とつながりました。そして義仲が二歳の時、義朝の子で頼朝の異母兄にあたる鎌倉悪源太義平に源義賢は館を急襲され、殺害されてしまいました(大蔵合戦)。

 この時、義仲は中原兼遠に抱かれて、大蔵の館を脱出することに成功します。そして信濃国の木曽で、密かに育てられ成長していきました。やがて通称木曽次郎と呼ばれるようになると、当時京都で活躍していた摂津源氏の棟梁である源頼政の養子となりました。義仲の兄仲家も頼政の養子となっており、兄弟で源頼政の庇護を受けたのです。やがて兄の仲家は八条院に仕え、八条院の蔵人に補任されました。

 治承四年(一一八〇)以仁王が平氏追討の令旨を下すと、義仲のもとにも令旨が伝わったようです。しかし以仁王や源頼政・兄の仲家は、平氏追討の計画が露見したため、平氏方に討伐されてしまいました。

 信濃国にいた義仲は、頼朝挙兵の報を聞き、九月七日に兵を挙げました。そして義仲挙兵を知った、平氏方の笠原頼直を市原合戦で破り、越後国へ追い払うことに成功します。

 年が明けると、笠原頼直が助けを求めた城長茂率いる越後勢が信濃国に攻め込み、横田河原で両者は激突しました。この戦いで義仲は鮮やかな勝利をかざりました。

 勢いに乗った義仲は、越後へ進軍して北陸道に出ました。そして寿永元年(一一八二)北陸に逃れてきた以仁王の皇子北陸宮を迎えいれます。しかしこの頃、関東制圧を進める源頼朝と対立がうまれました。頼朝とつながる甲斐源氏が南信濃に進出し、信濃国に影響力を強めてきたのです。また頼朝に追われ義仲を頼ってきた志田義広や源行家を義仲が保護したことから、両者は一触即発の状況になったのです。

 しかし共通の敵、平氏を前に頼朝と義仲が争うことは、平氏を利することにしかなりません。義仲は子の義高を人質として鎌倉へ送り、なんとか衝突を回避しました。

 こうした義仲の動きに対して、平氏も黙っていませんでした。平維盛を大将に、大軍を北陸へ向けて送り込みます。越前・加賀と進撃を続ける平氏に対して、兵の数で劣る義仲は窮地に陥ります。しかし越中国の般若野において奇襲攻撃をおこない、倶利伽羅峠で一発逆転の大勝利をおさめると、一気に京都へ攻め上りました。

 寿永二年(一一八三)七月、義仲の勢いに抗しきれなくなった平氏が、都を落ちていくと、七月二十八日遂に義仲は都へ入ることに成功します。

 後白河法皇に拝謁した義仲は、八月に入り、勲功の賞として従五位下・左馬頭・越前守(すぐに伊予守)を賜り、行家は従五位下、備後守(すぐに備前守)に任命されました。

 平氏は都落ちの際、安徳天皇と三種の神器をともなって西国へ逃げていきました。このため朝廷では、新たな天皇の擁立が喫緊の課題となります。皇位継承は、高倉上皇の皇子、惟明親王と尊成親王の二人に絞られていきます。

 ところがここに義仲が北陸宮の即位を申し立てました。これに後白河法皇をはじめ貴族達は困惑します。武士が皇位継承に介入してきたこと・追討された以仁王の遺児という問題など、後白河法皇にとっては到底受け入れられるものではなかったのです。やむなく義仲を納得させるため、神の神託に委ねる占いによって尊成親王の即位(後鳥羽天皇)を決めました。この一件は後白河法皇や貴族達の義仲に対する印象を悪くしました。

 加えて大軍を率いて入京した義仲軍は、食糧に乏しく略奪行為をはたらくようになりました。都の治安は悪くなり、朝廷はくりかえし義仲に統制を要請しますが、混成軍からなる義仲軍を義仲は上手くまとめることができませんでした。

 困った後白河法皇は、義仲軍を都から遠ざけるため、西国に逃れた平氏を追討するよう命令を下しました。平氏追討の命令を断りきれない義仲は、西国に向かいましたが、慣れない土地と食料不足で戦意は上がらず、義仲軍は苦戦を続けました。一方、義仲が都にいない間、後白河法皇は頼朝と交渉し、上洛を即しました。この動きを知った義仲は急ぎ都に帰り、後白河法皇に猛烈な抗議をおこない、頼朝追討の命令を下すよう迫りました。

 同年十一月、頼朝の派遣した源義経の軍が都に向かいました。さらに義仲軍を排除するため、後白河法皇が僧兵をあつめ、法住寺殿に立てこもりました。窮地に陥った義仲は、後白河法皇の挑発にのり、ついに後白河法皇の御所である法住寺殿を襲いました。圧倒的な強さで後白河法皇以下を捕らえると、前関白松殿基房の子、師家を摂政として傀儡政権をつくりました。そして十二月十日に頼朝追討の院庁下文を発給させ、頼朝と雌雄を決する態勢を整えました。

 年が明けた正月、頼朝の舎弟、範頼・義経の率いる軍勢が迫ると、宇治川や瀬田でこれを迎え撃ちました。しかし勢いに乗る鎌倉方に敗れ、北陸に落ち延びる途中の近江国粟津で討ち取られました。三十一歳の短い生涯でした。