現在、鎌倉の飲食店さんに配布中の小冊子レキシノワvol.14。ここで取り上げた六条八幡宮について、もう1つヒストリーを重ねてみる。
国立歴史博物館の『田中穣氏旧蔵典籍古文書』には、「六条八幡宮文書」四巻という貴重な文書が所蔵されている。その中には、永和元年(一三六五)八月六日の日付を持つ2通の「法印栄賢注進状」がある。1つは文治二年(一二八六)および承元二年(一二〇八)の六条八幡宮造営注文。もう1つは建治元年(一二七五)の造営注文である。
建治元年の造営注文は、造営料を負担した御家人の交名(きょうみょう。名簿みたいなもの)がズラリと書き連ねられている。文永と弘安の2回にわたる蒙古襲来の間に、相模守(北条時宗)、武蔵守(北条義政)、越後守(北条実時)をはじめ、総勢469名の造営負担は圧巻といえる。
六条八幡宮は鎌倉幕府を開いた源頼朝の時に造営され、大和国田殿庄・摂津国山田庄・尾張国日置庄をはじめ、筑前国武恒・犬丸、摂津国桑津庄、美濃国森部郷、土佐国大野・中村両郷などの庄園が寄進された。
ちなみに頼朝は、文治元年(一一八五)十二月。大江広元の弟季厳を六条八幡宮の別当(長官)に任命。建久元年(一一九〇)と同六年(一一九五)に自ら上洛した際は、六条八幡宮に参詣している。そして頼朝以降の幕府も六条八幡宮を尊崇した。このため六条八幡宮の修営・造営には、幕府と御家人が中心となったのである。
これが現在、若宮八幡宮(元々、六条八幡宮のあった場所)と六条八幡宮が関わった、鎌倉幕府との歴史の1つ。京都と鎌倉が強く結びついていた時代のお話^ ^