前回、前々回で、東寺百合文書WEBで検索した「源頼朝」に関わる古文書を取り上げました。その中で、身分の高い人は自分で文書を書かず、意を承った者が書き、承認の花押を自署したと述べました。貴人にかわり文書を書くものを「右筆」といいます。そこで今回は、源頼朝の右筆を取り上げてみたいと思います。
源頼朝の右筆については、相田二郎氏・黒川高明氏等の研究があります。ここでは黒川高明氏の「源頼朝文書の研究 研究編」を参考に、頼朝の右筆について確認していきます。
黒川氏は、現存する頼朝文書を丹念に調べ、頼朝文書はすべて右筆の手になるものとしています。そして以下の右筆を「吾妻鏡」から割り出しました。
- 藤原邦通(大和判官代)
藤原邦通は、レキシノワ創刊号4Pの上段末尾から中段半ばにかけて書いた、山木邸襲撃計画に登場します。冊子では山木邸を探るため、京下りの者を山木邸に送り込み、山木邸の詳細の絵図を作り上げたと書きました。この京下りの者が、藤原邦通です。邦通は「吾妻鏡」に出てくる最初の頼朝の右筆で、文治二年五月二十九日まで、右筆としての活動が確認できます。
- 昌寛(一品房)
養和元年(一一八一)五月二十三日を初見とするが、元暦元年正月三日条以後しばらく現れないといいます。しかし頼朝が上洛をした建久元年(一一九〇)十一月九日条に突然あらわれます。このことから黒川氏は、昌寛が寺社の建立・修造等に関わり、奉行として携わった人物ではないかとしています。
- 成尋(義勝房)
養和元年七月二十日条にしか現れません。
- 惟宗孝尚(筑前三郎)
元暦元年四月三日条にしか現れません。
- 藤原俊兼
元暦元年四月二十三日源頼朝奉書に名前が見られ、以下、文治・建久年間を通して活動が確認される。建久二年五月三日条の高階泰経宛の奉書が最後です。
- 三善康信
元暦元年五月二十一日条から建久五年まで、右筆としての記事が見られます。
- 平盛時
元暦元年十月二十日条を初見とし、吾妻鏡が欠巻となる建久六年七月十六日まで名前が散見されます。頼朝の右筆の中では、最も多く確認される人物です。
- 大江広元
文治元年四月十三日~建久五年五月二十九日条まで名前が見られます。
- 二階堂行政
文治元年四月十三日~建久五年九月二日条まで名前が見られます。
- 中原伸業
建久二年正月十五日~建久五年十月九日条まで名前が見られます。
黒川氏はむすびで、
治承四年(一一八〇)~寿永元年(一一八二)を藤原邦通・昌寛・成尋。
元暦元年(一一八四)~文治二年(一一八六)頃は、藤原俊兼が右筆の中心。
文治二年(一一八六)後半から平盛時が俊兼に代わって右筆の中心となり、
建久二年(一一九一)頃から政所下文が発給され、盛時の活動が私的な書状・御教書になっていく。
としています。
以上を踏まえると、東寺百合文書WEBの文治二年源頼朝書状案の正文は、藤原俊兼か平盛時が執筆して、頼朝が花押を据えたものと考えられます。