今日は所用で三浦方面へ。少し早めに出ておススメしてもらった新井城跡へ。
中世都市鎌倉の誕生に大きな影響を与えた相模国の名族、三浦氏は鎌倉幕府草創に貢献しながらも「宝治合戦」によって鎌倉で壮絶な最後を遂げる。しかし名族の血を庶流がつなぎ、戦国時代まで三浦半島を治めた。
そんな三浦一族にさらなる試練が襲い掛かる。遥か先に見える伊豆半島から小田原に進出し、相模国に勢力を伸長する伊勢新九郎(北条早雲)と激突。そしてこの新井城に追い詰められ、三年もの壮絶な戦いの末、滅亡した。
「討つものも討たるるものもかはらけよ 砕けて後はもとの土くれ」(三浦道寸義同の辞世の句)
小網代湾と油壷湾に囲まれた城は三方が海で、引橋という大手の一方のみが出入口だったという。まさに天然の要害。
今は三浦道寸や子息義意の墓と新井城跡の石碑が残る。浜に降りると相模湾が広がり、波が打寄せ続けていた。