前回までは石橋山の合戦で敗れ、安房国へ逃れた頼朝が房総半島から反撃を開始した内容を見てきました。そして下総国と武蔵国の境目の隅田川辺で、上総国の豪族上総介広常が遅れて参上します。今回は上総介広常の参上について読解していきたいと思います。
原文は「吾妻鏡」治承四年九月十九日条
「治承四年(1180)九月大十九日戊辰。上総権介廣常催二具當國周東。周西。伊南。伊北。廳南。廳北輩等一。率二二万騎一。参二上隅田河邊一。武衛頗瞋二彼遲參一。敢以無二許容之気一。廣常潜以為。如二當時一者。率土皆無レ非二平相國禅閤之管領一。爰武衛為二流人一。輙被レ挙二義兵一之間。其形勢無二高喚相一者。直討二取之一。可レ献二平家一者。仍内雖レ挿二二圖之存念一。外備二帰伏之儀参一。然者。得二此數万合力一。可レ被二感悦一歟之由。思儲之處。有下被レ咎二遅参一之気色上。殆叶二人主之躰一也。依レ之忽変二害心一。奉二和順一云々。陸奥鎭守府前将軍従五位下平朝臣良将男将門虜二領東國一。企二叛逆一之昔。藤原秀郷偽稱下可レ列二門客一之由上而入二彼陣一之處。将門喜悦之餘。不レ肆二所レ梳之髪一。即引二入烏帽子一謁レ之。秀郷見二其軽骨一。存下可二誅罰一之趣上退出。如二本意一獲其首一云々。」
訓読と要約を加えていきます。
「上総権介廣常催二具當國周東。周西。伊南。伊北。廳南。廳北輩等一。率二二万騎一。参二上隅田河邊一。」
「上総介広常が当国(上総国)の周東・周西・伊南・伊北・廳南・廳北の輩(ともがら・やから)等(ら)を催し具し、二万騎を率いて、隅田河邊に参上す。」
上総介広常が上総国の周東・周西・伊南・伊北・廳南・廳北等の軍勢、2万騎を率いて頼朝のいる隅田川辺に参陣した。
「武衛頗瞋二彼遲參一。敢以無二許容之気一。」
「武衛(頼朝)はすこぶる彼(上総介広常)の遅参をいかり、あえてもって許容の気は無かった。」
上総介広常の参陣に対して頼朝は、遅参を怒り、許す気配はなかった。
「廣常潜以為。如二當時一者。率土皆無レ非二平相國禅閤之管領一。」
「広常ひそかにもって為す。当時のごとくは卒土みな平相国禅閤(平清盛)の管領にあらざるは無し。」
広常はひそかに為すべきことを含んでいた。日本全土で清盛が管領しない場所は無かった。
「爰武衛為二流人一。輙被レ挙二義兵一之間。其形勢無二高喚相一者。直討二取之一。可レ献二平家一者。」
「ここに武衛は流人として、たやすく義兵を挙げらるの間、その形勢は高喚の相なくば、すぐに之を討ち取り、平家に献ずべし(者=てえり)。」
少し訳すのが難しいが、頼朝は流人の身で、義兵を挙げた。その様相に気品がなければ、討ち取って、清盛に差し出すという。
「仍内雖レ挿二二圖之存念一。外備二帰伏之儀参一。然者。得二此數万合力一。可レ被二感悦一歟之由。思儲之處。有下被レ咎二遅参一之気色上。」
「よって内に二図の存念をさしはさむといえども、外に帰服の儀を備えて参る。しかればこの数万の合力を得て、感悦せらるべきの由、思い儲けるの処、遅参を咎めらるの気色あり。」
上総介広常は、内に頼朝を討って平家に差し出す企てを抱えつつ、外見は頼朝に従うそぶりを見せて参上した。それは広常が率いる数万の兵が味方になるなら、喜ばれると思い定めていた。しかし遅参を咎められることとなった。
「殆叶二人主之躰一也。依レ之忽変二害心一。奉二和順一云々。」
「ほとんど主人の体を叶うなり。これによりたちまち害心を変じ、和順を奉るとうんぬん。」
頼朝は、主人としての資質を備えている。そのため広常は害心を改め、おとなしく従ったという。
「陸奥鎭守府前将軍従五位下平朝臣良将男将門虜二領東國一。企二叛逆一之昔。藤原秀郷偽稱下可レ列二門客一之由上而入二彼陣一之處。将門喜悦之餘。不レ肆二所レ梳之髪一。即引二入烏帽子一謁レ之。秀郷見二其軽骨一。存下可二誅罰一之趣上退出。如二本意一獲其首一云々。」
「陸奥の鎮守府の前の将軍、従五位の下、平の朝臣良将の男、将門が東国を虜領し、叛逆を企つの昔。藤原秀郷は偽りを称して門客に列すべきの由にて彼の陣に入るの処、将門喜悦のあまり、くしけずる所の髪をゆわず、すぐに烏帽子に引き入れ、これに謁する。秀郷その軽骨を見て、誅罰すべきの趣を存じ退出す。本意の如くその首を獲るとうんぬん。」
平将門が東国を襲い、反乱を起こした時。藤原秀郷は偽って将門方に参陣した。すると将門は髪を結わず,烏帽子に引き入れ、秀郷に会った。秀郷は将門の軽率な行動を見て、将門は誅伐すべき者だと意を決し退出した。そして決意の通り将門を討ったという。
最後の秀郷と将門の話は、頼朝の見事な対応を、将門の粗忽な振る舞いと比較することで、素晴らしさを強調しています。
頼朝の毅然とした姿勢に圧倒され、上総介広常は以後、心から従うようになりました。