史料講座 第6回.石橋山の戦いを読み解き古戦場を歩く。

史料講座 第6回.石橋山の戦いを読み解き古戦場を歩く。

2020年9月22日

 今回は石橋山の合戦について、実際に現地を歩き読み解いてみる。

 最初に石橋山の合戦について少し述べておく。伊豆国で山木兼隆を討った頼朝は、挙兵に呼応した三浦氏と合流するため、東へ兵を進めた。この動きを阻止するため大庭景親率いる平氏方は相模国を西へ向かった。そして相模国西端の石橋において両者が激突して合戦となったのが石橋山の合戦である。合戦のあった石橋へ向かうには、車だと西湘バイパス「石橋IC」を降りて南へ少し向かい、右手の細い道を佐奈田霊社へ向かった場所にある。細く急峻な道なので運転に注意が必要である。電車だとJR東日本の東海道線「早川駅」と「利府駅」の中間にあたり、歩くと相当な時間がかかると思われる。小田原駅からバスで向かう方法もあるらしい。

 ではさっそく「吾妻鏡」を読みながら現地を訪れた様子を交えてみる。

『吾妻鏡』治承四年八月二十三日条

「治承四年(1180)八月小廿三日癸卯。陰。入夜甚雨如沃。今日寅尅。武衛相率北條殿父子。盛長。茂光。實平以下三百騎。陣于相模国石橋山給。此間以件令旨。被御旗横上。中四郎惟重持之。又頼隆付白幣於上箭。候御後。爰同国住人大庭三郎景親。俣野五郎景久。河村三郎義秀。渋谷庄司重国。糟屋権守盛久。海老名源三季貞。曽我太郎助信。瀧口三郎経俊。毛利太郎景行。長尾新五為宗。同新六定景。原宗三郎景房。同四郎義行。并熊谷次郎直實以下平家被官之輩。率三千餘騎精兵。同在石橋邊。両陣之際隔一谷也。景親士卒之中。飯田五郎家義。依志於武衛。雖馳參。景親従軍列道路之間。不意在彼陣。亦伊東二郎祐親法師率三百餘騎。宿于武衛陣之後山兮。欲之。三浦輩者。依晩天。宿丸子河邊。遣郎從等。焼失景親之党類家屋。其煙聳半天。景親等遥見之。知三浦輩所為之由訖。相議云。今日已雖黄昏。可合戰。期明日者。三浦衆馳加。定難喪敗歟之由。群議事訖。數千強兵襲攻武衛之陣。而計源家従兵。雖難比彼大軍。皆依舊好。只乞死。然間。佐那田余一義忠。并武藤三郎。及郎従豊三家康等殞命。景親弥乗勝。至曉天。武衛令于椙山之中給。于時疾風惱心。暴雨勞身。景親奉之。發矢石之處。家義乍相交景親陣中。為武衛。引分我衆六騎。戦于景親。以此隙椙山給云々。」

 石橋山の合戦が行われた八月二十三日の天気は、曇から夜になって雨が激しく降った。寅刻(鎌倉時代だと午前四時ころ)に武衛(=頼朝)は北条殿親子・安達盛長・工藤茂光・土肥實平以下の三百騎を率いて石橋山に陣を構えた。

 石橋山の地形は、伊豆から北の小田原へと抜ける交通の要衝で、西から東の海にかけて断崖絶壁となっている。訪れた当日は快晴で、石橋山から遥かに三浦半島を望むことができた。小田原・国府津・大磯なども一望できる絶好の場所といえる。頼朝はこの見晴らしの良い石橋山へ登り、三浦一族の到着を待つつもりだったと考えられが、夜になってからあいにくの豪雨で、三浦勢の姿は確認できなかったと思われる。

 石橋山に陣を構えた頼朝は、「件の令旨」(=以仁王の令旨)を「御旗」(=頼朝のいる場所を示す旗)の横上につけたという。頼朝は以仁王の令旨に応じた挙兵なのだと周囲に示すことで、自身の反乱を正当なものだと主張した。

 この令旨のついた旗を中四郎惟思が持ち、永江蔵人頼隆は白幣を上箭に付け、頼朝の後ろにひかえた。

 ここに「同国」(=相模国)の住人大庭三郎景親と俣野五郎景久・河村三郎・渋谷庄司重国・糟屋権守盛久・海老名源三季貞・曽我太郎助信・瀧口三郎経俊・毛利太郎景行・長尾新五為宗・同新六定景・原宗三郎景房・同四郎義行并熊谷次郎直實以下の平氏被官が三千餘騎の精兵を率いて石橋辺りに迫った。

 両陣は一つの谷を隔てるばかりであったという。

確かに石橋山を含む石橋地区は山谷が連なる急峻な地形をしている。歩くだけでも大変な場所である。よくこうした場所で戦いがおこなわれたなと思う。

 大庭景親の士卒の中に飯田五郎家義というものがいた。彼は志を頼朝に寄せ、頼朝の元へ向かうつもりだったが、大庭景親の軍勢が道にいたので、不本意だが景親の陣に列していた。

 また伊東二郎祐親法師が三百餘騎を率いて、頼朝が陣地をしく石橋山の後ろに待機して、背後から襲う構えを見せた。

 頼朝方の三浦勢は晩になったので、丸子川あたりに宿をとった。そして郎従等を遣わして景親方の家屋に火を放った。

 煙が空に登ったのを見た景親は、三浦の輩の仕業だと知り、主だったものを集めて次のように言った。「今日すでに黄昏時といえども、合戦を遂げるべし。明日になっては、三浦の衆が馳せ加わり、勝敗を決しがたくなる」。

群議が終わると、平氏方の兵が頼朝の陣を襲った。頼朝方の兵は平氏方の兵の数と比べる程はいなかったが、皆昔からの好を重ねていたので、死を覚悟して戦いに臨んだ。ここで佐那田余一義忠や武藤三郎及び郎従の豊三家康などが命を落とした。

 石橋山には、この戦いで命を落とした佐那田余一義忠を祀る「佐奈田霊社」が建てられている。「佐奈田霊社」は日本唯一の「霊社」で、境内には「与一塚」、近くには余一が俣野景久を組み伏せたという「ねじり畑」があり、当時の激戦をしのぶことができる。

「吾妻鏡」建久元年(一一九〇)正月二十日条に、二所詣(将軍家が正月に三嶋社および伊豆山・箱根権現を参拝する儀式)の際、石橋山を訪れた頼朝は、佐奈田与一・豊三家康等の墳墓で石橋山の合戦をしのび涙したという。

 佐奈田与一らを討ち取った大庭景親は勝ちに乗り攻めてきたので、暁天(明け方)に至って、頼朝方は頼朝を杉山の山中に逃げさせようとした。強い風が頼朝の心を悩まし、激しい雨が身にこたえた。大庭景親はこれを追い、矢石を発して迫った。この時、頼朝に好を通じながらも大庭景親の陣にあった飯田五郎家義が、頼朝を逃すために自身の兵から六騎をわけて大庭景親と戦わせた。この隙に頼朝は杉山に入るこができたという。

 二十三日の戦いで敗れた頼朝は翌日、杉山の内の堀口あたりに陣を布いた。ここに大庭景親の率いる三千騎が襲い掛かり激戦を展開する。しかし多勢に無勢の頼朝は次第に後退していく。

 石橋山で窮地を脱した頼朝だったが、さらなる追手に追い詰められ、ついに真鶴岬より海路安房国(千葉県南部)へ落ち延びていくこととなる。