史料講座 第9回.木曽義仲の挙兵。

史料講座 第9回.木曽義仲の挙兵。

前回の史料講座では、安房国に落ち延びた頼朝のもとへ、安房国の安西景益が参上した「吾妻鏡」治承四年九月四日条を読んだ。今回は、三日後の九月七日条木曽義仲の挙兵を取り上げる。

「吾妻鏡」治承四年九月七日条

「治承四年(1180)九月七日大七日丙辰。源氏木曽冠者義仲主者。帯刀先生義賢二男也。義賢。去久壽二年八月。於武蔵國大倉舘。為鎌倉悪源太義平主討亡。于時義仲為三歳嬰兒也。乳母夫中三権守兼遠懐之。遁于信濃國木曽。令育之。成人之今。武畧禀性。征平氏家之由有存念。而前武衛於石橋。已被合戰之由。達遠聞。忽相加欲素意。爰平家方人有笠原平五頼直者。今日相具軍士。擬木曽。々々方人村山七郎義直。并栗田寺別當大法師範覚等聞此事。相逢于當國市原。決勝負。両方合戰半。日已暮。然義直箭窮頗雌伏。遣飛脚於木曽之陣。告事由。仍木曽率来大軍。競到之處。頼直怖其威勢逃亡。為城四郎長茂越後國云々。」

やや長文なので、半分に分けて現代語訳を加えながら進めていく。

前半は

源氏木曽冠者義仲主者。帯刀先生義賢二男也。義賢。去久壽二年八月。於武蔵國大倉舘。為鎌倉悪源太義平主討亡。于時義仲為三歳嬰兒也。乳母夫中三権守兼遠懐之。遁于信濃國木曽。令育之。成人之今。武畧禀性。」

 ここまでは、木曽義仲を説明した文である。

はじめを訓読すると「源氏の木曽の冠者義仲あるじは、帯刀先生義賢の次男なり。」となる。源氏は諸国に広がっており(平氏も)、昔は地名をつけ、何処の源氏かわかるようにしていた。冠者は「元服して冠をつけた少年や、六位で無冠の人をあらわす」。

よって「木曽にいた源氏の冠者義仲あるじは」となる。帯刀先生(たちはきせんじょう)は、東宮坊の帯刀の舎人の上位者一・二名に与えられる地位をいう。義賢は頼朝の父義朝で、義仲と頼朝はいとこ関係であった。

次は「去(さんぬる)久壽二年(一一五五)八月、武蔵の国大倉の舘において、鎌倉悪源太義平あるじ為るに、討ち滅ぼさる。」。武蔵の国大倉の舘は、埼玉県比企郡嵐山町大蔵字御所ケ谷戸にあった義賢の館で、現在は神社となっている。ここで鎌倉悪源太義平あるじによって討ち滅ぼされたという。鎌倉悪源太義平は、鎌倉にいた「悪」は「わるい」ではなく「強い」という意味。義平は頼朝の異母兄で、父義朝が東国に基盤を築き、やがて在京するようになると、父に代わり東国統治の役割を担った。義賢と義朝は為義の子で兄弟だったが対立関係にあった。

義賢が鎌倉悪源太義平に討たれたとき、義賢の子、義仲はわずか三歳の嬰児であった。

義仲の乳母夫(めのと)中三権守兼遠は義仲を抱き、信濃国木曽へ逃れ、養育したという。乳母夫は、貴人の子供を養い育てる女性の夫で、当時は相当強い絆で結ばれる存在だった。中は「中原」の略で、三は「三男」。権守は「国守の権官(令制外の官で、正官と並置され正官に相当した」でここでは信濃権守か?つまり「中原の三郎の信濃権守の兼遠」となる。

義仲は成人して、武略をあらわすようになったという。

続いて後半にうつる。

「征平氏家之由有存念。而前武衛於石橋。已被合戰之由。達遠聞。忽相加欲素意。爰平家方人有笠原平五頼直者。今日相具軍士。擬木曽。々々方人村山七郎義直。并栗田寺別當大法師範覚等聞此事。相逢于當國市原。決勝負。両方合戰半。日已暮。然義直箭窮頗雌伏。遣飛脚於木曽之陣。告事由。仍木曽率来大軍。競到之處。頼直怖其威勢逃亡。為城四郎長茂越後國云々。」

ここまでは、義仲が平氏追討の兵を挙げた様子を記している。

最初を訓読すると「平氏を征し家を興すべきの由、存念あり。しかるに前の武衛、石橋において、すでに合戦を始めらるの由、遠聞(えんぶん)に達し、たちまち相加わり、素意を顕さんと欲す」となる。

木曽で養育された義仲は、平氏を倒して家を興す考えをもっていた。そして前武衛(頼朝)が石橋山で合戦を始めたことを聞き、平氏追討に加わり、かねてからの願いをあらわすようになったという。

これに対して平家の方人(かとうど)である笠原平五頼平が、今日(九月七日)軍勢を引き連れ、義仲を襲う動きを見せた。義仲の方人の村山七郎義直と栗田寺別當大法師範覚らはこのことを聞き、信濃の国市原で遭遇して、勝負を決した。双方ともに譲らず、日が暮れた。しかし村山七郎義直は矢がなくなり、戦うことができなくなった。そこで使いを義仲の陣へ送り事態を伝えた。義直の報告を聞いた義仲は、大軍を率いて戦場に向かったので、笠原平五頼平はその威勢を恐れて逃げ去った。城四郎長茂に加わろうと隣国越後国(新潟県)に向かったという。

以上、後半の合戦の様子についてはさっと読んだが、今回は源義仲=木曽義仲・源義平=鎌倉義平というように、地名や住んでいる場所が名字として呼ばれている例を示した。

頼朝も鎌倉に邸宅を構えると、鎌倉殿と呼ばれるようになった。このように当時の呼び名は在所によって呼び方が変わるということを念頭に置くと、古記録の理解もより深まると思う。