今回は「吾妻鏡」の本文の冒頭を読解してみたい。
『吾妻鏡』治承四年(一一八〇)四月九日条
「四月小九日辛卯。入道源三位頼政卿可レ討二滅平相国禅門清盛一由。日者有二用意事一。然而以二私計畧一。太依レ難レ遂二宿意一。今日入レ夜。相二具子息伊豆守仲綱等一。潜参二于一院第二宮(以仁王)之三條高倉御所一。催二前右兵衛佐頼朝以下源氏等一。討二彼氏族一。可下令レ執二天下一給上之由申二行之一。仍仰二散位宗信一。被レ下二令旨一。而陸奥十郎義盛(廷尉為義末子)。折節在京之間。帯二此令旨一向二東国一。先相二触前右兵衛佐(頼朝)一之後。可レ伝二其外源氏等一之趣。所レ被二仰含一也。義盛補二八條院蔵人一(名字改二行家一)。」
長文で訓読が難しいが基本的には前回(第1回)解説した内容の長文パターンなので、前回述べた返り点などの解説は省き、今回は内容の読解に重点を置き進めていく。
はじめの「四月小九日辛卯」だが、「吾妻鏡」は編年体で記述されているので、基本的には月日がはじめにくる。これは「明月記」「玉葉」など公家の日記でも同じである。
「月」と「九」の間にある「小」は、当時の暦(陰暦)の一か月は「大の月(=三〇日)」と「小の月(=二九日)」の2つがあった。
このためこの年の「四月」がどちらの月か?ということを示す必要から「月」と「九」の間に「小」を入れ記載している。
次に「辛卯」だが、当時の時間は「十干十二支」で表されていた。
例えば一か月は「十干」が一旬して「上旬」「中旬」「下旬」となる。これは現在でもよく使う。
また「十二支」は「午刻」や「丑刻」というように、一日の時間を十二等分して干支で表した。現在でも午前・正午・午後というのはこの名残である。
十干十二支は毎日組み合わせが変わり、計60パターンが繰り返されていた(1年も同じ)。
現在も六〇歳がめでたいとされるのは、生まれた年の「十干十二支」に六〇年で戻るためである(還暦)。
さて本文に戻ると「入道源三位頼政卿可レ討二滅平相国禅門清盛一由。」は「入道」が「仏門に入った人=出家」、「源」が氏で、「三位」が「位階」(三位以上の貴族を公卿という)、「頼政」が実名で、「今は出家した元の三位、源頼政卿」という人が、「平相国禅門清盛」(=平清盛。相国は太政大臣の唐名。唐名は日本の官職を中国の官称にあてたもの。禅門は入道と同じような意味)を討滅すべきということを、「日者有二用意事一。」=日ごろ用意をしていたという。
「然而」(=しかれども、と読む)、頼政だけの計略(畧=略の異体字。異体字は思いっきり簡潔に言うと標準の字とは異なる字)では、「太」(=はなはだ、と読む)、宿意は遂げ難かったので、今日の夜になって、子息の伊豆守仲綱等を率いて、「潜」(ひそかに)、次の「干」は置字(置字は訓読する際には読まない字)で飛ばし、「一院」(=この場合は後白河。新院が高倉上皇)の第二皇子の以仁王が住む三条高倉の御所へ参ったという。
三条高倉の以仁王の御所へ参上した頼政は、「催二前右兵衛佐頼朝以下源氏等一。討二彼氏族一。可下令レ執二天下一給上之由申二行之一」と述べた。
つまり「前右兵衛佐」(=以前右兵衛佐の官職についていたという意味)頼朝以下の源氏等を集めて、「彼氏族」(=清盛の平氏)を討ち、天下を以仁王にお執らせいたしますという事を申したという。
そして以仁王は散位(さんい。位階だけがあり官職のないもの)の藤原宗信に命令して、「令旨」(りょうじ。ざっくりいうと皇族がだす命令の文書)を発行させた。
そして「而陸奥十郎義盛(廷尉為義末子)。折節在京之間。帯二此令旨一向二東国一。先相二触前右兵衛佐(頼朝)一之後。可レ伝二其外源氏等一之趣。所レ被二仰含一也。義盛補二八條院蔵人一(名字改二行家一)。」
最初の「而」は(しかるに。と読む)。
「陸奥十郎義盛(廷尉為義末子)」(陸奥守の十男の義盛=つまり廷尉為義の末子と注釈を書いている。
廷尉は検非違使の唐名で、為義は頼朝のおじいちゃんにあたるので、義盛は頼朝にとって叔父さんとなる)が、ちょうど京都にいたので、以仁王の令旨をもって東国へ向かったという。
義盛はまず頼朝に会って令旨の内容を伝えた後、その他の源氏等に伝えるよう命令された。義盛は八条院蔵人(八条院は鳥羽天皇の王女で膨大な荘園群を引き継いでいた。蔵人はこの場合、八条院の雑事をつとめる者。)に補任され、名を行家とあらためた。と書かれている。