史料講座 第2回.「吾妻鏡」の冒頭を読んでみる!!

史料講座 第2回.「吾妻鏡」の冒頭を読んでみる!!

2020年8月1日

今回は「吾妻鏡」の本文の冒頭を読解してみたい。

『吾妻鏡』治承四年(一一八〇)四月九日条

「四月小九日辛卯。入道源三位頼政卿可滅平相国禅門清盛由。日者有用意事。然而以私計畧。太依宿意。今日入夜。相具子息伊豆守仲綱等。潜参于一院第二宮(以仁王)之三條高倉御所。催前右兵衛佐頼朝以下源氏等。討彼氏族。可天下之由申行之。仍仰散位宗信。被令旨。而陸奥十郎義盛(廷尉為義末子)。折節在京之間。帯此令旨東国。先相触前右兵衛佐(頼朝)之後。可其外源氏等之趣。所仰含也。義盛補八條院蔵人(名字改行家)。」

長文で訓読が難しいが基本的には前回(第1回)解説した内容の長文パターンなので、前回述べた返り点などの解説は省き、今回は内容の読解に重点を置き進めていく。

はじめの「四月小九日辛卯」だが、「吾妻鏡」は編年体で記述されているので、基本的には月日がはじめにくる。これは「明月記」「玉葉」など公家の日記でも同じである。

「月」と「九」の間にある「小」は、当時の暦(陰暦)の一か月は「大の月(=三〇日)」と「小の月(=二九日)」の2つがあった。

このためこの年の「四月」がどちらの月か?ということを示す必要から「月」と「九」の間に「小」を入れ記載している。

次に「辛卯」だが、当時の時間は「十干十二支」で表されていた。

例えば一か月は「十干」が一旬して「上旬」「中旬」「下旬」となる。これは現在でもよく使う。

また「十二支」は「午刻」や「丑刻」というように、一日の時間を十二等分して干支で表した。現在でも午前・正午・午後というのはこの名残である。

十干十二支は毎日組み合わせが変わり、計60パターンが繰り返されていた(1年も同じ)。

現在も六〇歳がめでたいとされるのは、生まれた年の「十干十二支」に六〇年で戻るためである(還暦)。

さて本文に戻ると「入道源三位頼政卿可滅平相国禅門清盛由。」は「入道」が「仏門に入った人=出家」、「源」が氏で、「三位」が「位階」(三位以上の貴族を公卿という)、「頼政」が実名で、「今は出家した元の三位、源頼政卿」という人が、「平相国禅門清盛」(=平清盛。相国は太政大臣の唐名。唐名は日本の官職を中国の官称にあてたもの。禅門は入道と同じような意味)を討滅すべきということを、「日者有用意事。」=日ごろ用意をしていたという。

「然而」(=しかれども、と読む)、頼政だけの計略(畧=略の異体字。異体字は思いっきり簡潔に言うと標準の字とは異なる字)では、「太」(=はなはだ、と読む)、宿意は遂げ難かったので、今日の夜になって、子息の伊豆守仲綱等を率いて、「潜」(ひそかに)、次の「干」は置字(置字は訓読する際には読まない字)で飛ばし、「一院」(=この場合は後白河。新院が高倉上皇)の第二皇子の以仁王が住む三条高倉の御所へ参ったという。

三条高倉の以仁王の御所へ参上した頼政は、「前右兵衛佐頼朝以下源氏等。討彼氏族。可天下之由申行之」と述べた。

つまり「前右兵衛佐」(=以前右兵衛佐の官職についていたという意味)頼朝以下の源氏等を集めて、「彼氏族」(=清盛の平氏)を討ち、天下を以仁王にお執らせいたしますという事を申したという。

そして以仁王は散位(さんい。位階だけがあり官職のないもの)の藤原宗信に命令して、「令旨」(りょうじ。ざっくりいうと皇族がだす命令の文書)を発行させた。

そして「而陸奥十郎義盛(廷尉為義末子)。折節在京之間。帯此令旨東国。先相触前右兵衛佐(頼朝)之後。可其外源氏等之趣。所仰含也。義盛補八條院蔵人(名字改行家)。」

最初の「而」は(しかるに。と読む)。

「陸奥十郎義盛(廷尉為義末子)」(陸奥守の十男の義盛=つまり廷尉為義の末子と注釈を書いている。

廷尉は検非違使の唐名で、為義は頼朝のおじいちゃんにあたるので、義盛は頼朝にとって叔父さんとなる)が、ちょうど京都にいたので、以仁王の令旨をもって東国へ向かったという。

義盛はまず頼朝に会って令旨の内容を伝えた後、その他の源氏等に伝えるよう命令された。義盛は八条院蔵人(八条院は鳥羽天皇の王女で膨大な荘園群を引き継いでいた。蔵人はこの場合、八条院の雑事をつとめる者。)に補任され、名を行家とあらためた。と書かれている。