人物紹介~後白河院~

人物紹介~後白河院~

2020年8月29日

 鳥羽上皇の第四皇子。久寿二年(一一五五)に兄の近衛天皇が崩御すると、美福門院の支持する後白河の第一皇子守仁の中継ぎとして29歳で即位した。鳥羽法皇崩御後に起こった保元の乱で崇徳上皇方に勝利し鳥羽法皇の意思を守った。当時、後白河の政治は藤原信西が執り行っていた。

 保元三年(一一五八)当初の予定通り守仁(二条天皇)に譲位した。しかし二条天皇の即位は後白河院政派と二条親政派の対立を生んだ。さらに後白河院政派の中でも信西と信頼の抗争が起こり、政局は混迷を極めた。

 そして後白河の寵臣藤原信頼がクーデターを起こした平治の乱で、政務を執り行っていた藤原信西と一大勢力を築いていた藤原信頼を失った。このため平清盛の後援を得た二条新政派が政治を主導するようになった。しかし長寛三年(一一六五)七月、二条天皇が病に倒れ、幼い順仁(六条天皇)に譲位して崩御すると、にわかに後白河院政派が息を吹き返した。六条天皇の皇太子に平氏とつながりの深い憲仁(後の高倉天皇)を立てると、仁安三年(一一六八)には六条天皇に譲位を強要して憲仁を即位させた(高倉天皇)。ここに後白河院政と平氏による政治が成立した。

 こうして表向きは鳥羽院以来の政治の混迷が解消されたかに見えたが、安元二年(一一七六)平氏とつながりの深い高倉天皇の母滋子亡くなると、今度は後白河院と平氏の関係は悪化の一途を辿った。そして治承三年(一一七九)の政変で清盛によって後白河は鳥羽殿に幽閉され、院政を完全に停められてしまった。翌三月、延暦寺・園城寺・興福寺の大衆によって、後白河と高倉を奪取しようという計画が発覚すると、警備上の問題から後白河の還御と福原遷都が強行された。

この後白河還御の直後におこったのが以仁王の乱である。後白河はこの後も政治に影響を与え続けるが、ここから先は吾妻鏡を読み解く中でその生涯を追っていく。