名所旧跡探訪〜那須塩原の源氏落人伝説〜

名所旧跡探訪〜那須塩原の源氏落人伝説〜

2020年8月29日

 西那須野インターから西へ車でおよそ一時間。急流として名高い箒川沿いの山々を抜けていくと塩原温泉郷に辿り着く。ここの温泉の特徴は、源泉数が関東2位(全国9位)で204カ所もあるという。泉質の種類は全9種中の6種類におよび、全国にあるほとんどの温泉が味わえる。自分にあう温泉を探すのにちょうど良いといえる。この山と渓谷に囲まれた秘境といえる塩原温泉郷の中に「源三窟」という観光名所がある。

源三窟とは

源三窟の源は源氏を現し、三は位階の三位を意味する。源三は現代に作られた言葉ではなく、平安時代から人をあらわす言葉として使われ

ていた。源氏で三位の公卿を源三位と呼んだ。昔は今と違って実名で呼ぶのは失礼だったので、通称を用いた。平安時代の源三位というと、以仁王と共に平氏打倒のために立ち上がった源頼政を指す。

源頼政とは

 源氏の中でも摂津国に由来する源氏の棟梁である。当時源氏や平氏などの武士団は各地に割拠していた。平清盛は伊勢平氏、源頼朝は河内源氏を祖とする武士団の棟梁であった。だからひとくくりに源氏といっても仲間同士だったわけではなく、対立する場合も多かった。頼政は頼朝の父義朝と平清盛が主力となって激突した平治の乱では清盛方に属し、戦後恩賞を賜り朝廷に出仕した。

 平氏政権と協調関係にあり、栄華に浴した頼政だったが治承四年五月に突如、以仁王の平氏打倒に与して挙兵した。以仁王は後白河上皇の第二皇子という身分の高い人物だが、平氏と婚姻関係を結ぶ兄の高倉上皇とその子安徳天皇が正統の立場にあったため、当時不遇をかこっていた。この以仁王が園城寺に籠り平氏打倒を呼びかけたのである。これを以仁王の乱と呼ぶ。以仁王の乱については、以仁王が主体的に決起した説。頼政が横暴な振る舞いを続ける平氏を打倒するため以仁王を担ぎ上げた説など諸説あり事件の動機はわからない。いずれにせよ以仁王捕縛の軍勢が差し向けられ、王は南都(奈良)へ落ち延びる途中、宇治において討たれたという。頼政は平等院に籠ったが子息らと共に自害した。

諸国の源氏が蜂起

 以仁王と源頼政の死をもって事件は収束したかに見えたが、以仁王は挙兵の際、諸国の源氏に平氏討伐の兵を挙げるよう、使者と令旨(身分の高い人の命令書)を遣わしていた。これを受け取った伊豆の頼朝をはじめ、各地で平氏に不満を持つ勢力が蜂起した。こうして源平合戦の火蓋が切られた。

生き残っていた頼政の孫

 頼政と一族は、以仁王の乱で絶えたかに思われた。しかし事件の時、伊豆に在国していた頼政の子仲綱の次男有綱という壮年の武士が生き残っていた。有綱は頼朝の挙兵に従い、一族の敵を討つため戦った。そして頼朝の義弟義経に与して壇ノ浦で平氏を滅亡へ追いやり、一族の無念を晴らした。その後、頼朝と義経の兄弟争いが起こり、有綱は義経に味方したため頼朝方に追われる身となった。

有綱の最後

 義経と別れ大和国宇陀郡に逃れた有綱だが、「吾妻鏡」によると文治二年(一一八六)付近を捜索していた北条時定の手勢に見つかり、深山に入り自害したという。追手から逃れ続けた末の無念の最期であった。義経方の逃避行は、長く広範囲に渡った。そのため各地に伝承がうまれた。有綱が塩原温泉郷の洞窟に身を隠したという伝承も、奥州へ逃れた義経を追う途中に立ち寄ったという。こうした伝承は、平家追討という大仕事をやってのけた義経に対する人々の同情であり、厳しい逃避行と一行の最期を語り継ぐ事は、無念の想いに共感したあらわれだと受け取れる。