前回の投稿では、東寺百合文書WEBの「ミ函/22/2/ 文治2年閏7月25日(1186)」文治二年「源頼朝書状案」を取り上げました。今回は検索すると出てくるもう一つの、て函/1/2/1/ 建久2年12月11日(1191)「源頼朝袖判御教書案」を素材に、御教書という文書様式に注目してみたいと思います。
はじめに袖判とは、文書の袖に自署(花押)を据えたものをいいます。古文書は、向かって右側を「袖」、左を「奥」と呼びます。今回の文書は「案」とあるので、写しのため自署はございません。ただし正文(原文書)の袖部分に頼朝の自署があったことを示すために、「御判」(ごはん)と記されています。
それから御教書とは、貴人の意を承った者が奉ずる文書をいいます。身分の高い人は、自ら命令や通信の文を書くことはありませんでした。そのため、内容を聞いた者が承けたまわったのです。例えば摂政・関白の意を承り出された奉書を「摂関家御教書」といい、後に鎌倉幕府が出した文書を「関東御教書」といいます。「関東御教書」は形式的には、鎌倉将軍の意を執権・連署が承るという体裁です。
源頼朝は文治元年(一一八五)に従二位に叙され、公卿に列しました。これ以降、頼朝の意を奉じた文書は、御教書と呼ばれるようになりました。
さて東寺百合文書WEBでは、建久二年十二月十一日付けで、源頼朝袖判御教書を写した三つの文書がHITします。この中で、て函/1/2/1/ 建久2年12月11日(1191)の文字が比較的読みやすいので、こちらを見ながら進めていきます。
翻刻すると
「御判
東寺修理上人為勧進所被
下向也、誰人無志干仏法哉、
不成疑心、可令結縁之状
如件
建久二年十二月十一日」
となります。
正文で頼朝の花押があった場所は「御判」と記しています。文書の袖(向かって右)のため、文書名が、源頼朝袖判御教書となります。
内容は、東寺修理の上人が勧進として下向された。誰人仏法に志は無きかな。疑心を成さず、仏道と縁を結ばせるべき状は、前記のとおりである。となります。
このように、東寺百合文書WEBで、人物や地名などを入力して、古文書に触れて学ぶ事も歴史の楽しみの一つといえます。