日本初の本格的な武家政権の時代といわれる鎌倉時代だが、すべては平安時代の延長にあるといってよい。特に平安時代末期を理解することが鎌倉時代を知る早道である。ただし一口に時代といっても政治・経済・文化など時代を構成する要素は多い。そこで何回かにわけて時代について述べていく。今回は「政治」にかかわる内容をまとめてみる。
平安時代末期の政治は院政といわれる太上天皇が政務の決裁をおこなう体制によって成り立っていた。太上天皇とは退位した天皇を意味する。たいていは天皇の父か祖父が幼少の天皇に代わって政治を執り行った。この政治を執り行った太上天皇を「治天の君」と呼ぶ。院政のはじまりは藤原氏を外戚としない後三条上皇とするが、院政が定着したのは次の白河上皇であり、さらに鳥羽・後白河に至って盛期を迎えた。その後も後鳥羽上皇へと受け継がれていくが、鎌倉時代に武家が興隆するにおよび治天の君の政治力は陰りを見せた。
院の御所を「仙洞」といい、「仙洞」の中の「院庁」という政務機関で、「院司」と呼ばれる朝廷の官職を持つ者達によって政治が執り行われた。「院庁」には蔵人所・文殿・武者所・御厩などの機関があり、別当・判官代・主典代という役職が定められ、たくさんの貴族が院政を支えた。
「治天の君」の命令は、「院庁下文」や「院宣」によって下され、朝廷の発布する「宣旨」や「太政官符」とは別の上位下達文書がうまれた。「院庁下文」や「院宣」の発布に携わった人物は、院の忠実な臣下で「院の近臣」と呼ばれた。この「院の近臣」は、上皇の乳母夫など院と関係の近い人物や数か国の受領(国司中の最上級。国守)を歴任した実力者、院の寵愛を受けた者達から形成された。
「吾妻鏡」がはじまる時代は、後白河院政が平清盛によって院政を停止され(治承三年の政変)、平氏と血縁関係を持つ高倉院政がスタートした時期にあたる。治承三年の政変は清盛によって強引になされたもので、後白河院は洛南の鳥羽殿に幽閉され、摂関をはじめとする後白河院の近臣が解官・流罪となった。この清盛による恣意的な行動が、翌年におこる以仁王の乱をはじめとする反平氏運動につながり後白河の還御が認められる。やがて高倉院が亡くなると再び後白河院政が復活する。晩年の後白河院政は、治承・寿永の乱、平氏の都落ち、木曽義仲の入京と横暴、源義経の活躍と没落など、激動する世を潜り抜け後白河の崩御まで続いた。