鎌倉時代を知るには平安時代を理解する!!~武士の誕生~

鎌倉時代を知るには平安時代を理解する!!~武士の誕生~

 日本初の本格的な武家政権の時代といわれる鎌倉時代ですが、すべては平安時代の延長にあるといえます。特に平安時代末期を理解することが鎌倉時代を知る早道です。ただし一口に時代といっても政治・社会・経済・文化など時代を構成する要素は数多くあります。そこで何回かにわけて、時代について述べていきます。今回は「社会」にかかわる中でも「武士の誕生」についてまとめてみます。

 鎌倉に日本ではじめての本格的な武家政権が樹立すると、全国の武士(御家人達)は、鎌倉幕府の将軍が統轄しました。わかりやすくするためにここからはかなりざっくり述べていきます。

 御家人達は地頭といわれる役職に任命されると、赴任地の荘園管理や治安維持を名目に、荘園社会に進出していきました。地頭の職分も様々で、土地を切り開いた開発領主が、開発地に任命された地頭職は、基本的には権限が強く、収入も多かったのですが、借金や相続争いで利権が分割されてゆくと、それぞれの地頭の力は弱くなりました。また謀反人の跡地や承久の乱という朝廷と鎌倉幕府の合戦後、新たに設置された地頭職は、基本的にそれほど収入は多くありませんでした。

 こうして全国各地に様々な権利を持った地頭職が広まると、荘園領主と摩擦がおこり、鎌倉幕府に訴訟が持ち込まれました。そして荘園領主や地頭に対する鎌倉幕府の裁判権が強まると、ますます鎌倉幕府つまり武家社会の存在力は増していったのです。

 しかし鎌倉幕府は、全国各地からの訴訟に対して、公平な裁決を下せるほど、法の整備と正当性を貫き通せる存在ではありませんでした。とくに鎌倉幕府内に特権を持った北条家に連なる人々が利権を握ると、裁判で負けて没落した者や不平を被った人達の不満が増えていきました。そこに皇位継承の問題が絡まり、後醍醐天皇が討幕の挙兵を唱えると、正当性を失った鎌倉幕府は、たちまち滅亡へと追い込まれていきました。

 その後、社会は室町時代へと移り変わっていきますが、このころになると御家人達は領地に根差した在地領主となっていきました。あきらかに鎌倉時代の武士(御家人)とは違った存在になっていきました。これは室町幕府が地方統治に関する権限を守護に任せたため、御家人達は幕府よりも守護との結びつきを強めざるを得なかったからです。在地領主はあらゆる面で、自己防衛力を高めなければならず、在地の支配を推し進め、荘園領主はもとより国衙領(国の土地)も領地として組み込んでいきました。領主は領民を守るため、他からの侵略を防がなくてはなりませんでした。このため領民を武装動員して戦う存在へと変わっていきました。

 こうした武士の在り方を転換させたのが、織田信長です。織田信長は農業に従事しつつ、戦いにも動員される半農的な武士を改め、戦い専門の武士を組織しました。織田信長によって兵農分離が進み、豊臣秀吉が大名の配置替えを頻繁におこなうと、在地と領主の関係が絶たれ、江戸時代の大名やお侍さんという比較的今の我々がイメージしやすい武士社会像になっていったのです。

 さて武士についての前置きが長くなりましたが、武士の変遷をふまえた上で、武士の世のはじまりに戻って、武士について改めて考えてみます。平安時代の中頃に、天皇の子息で、皇族としての身分を失った者が、地方へ赴任して、何代にもわたり地域の紛争に関わるようになると、武士団が形成されていきました。この地方へ下った元の皇族が棟梁となって形成した武士団を、桓武平氏や清和源氏といいます。桓武平氏は、桓武天皇の孫で平姓を賜った高望王を祖先とします。清和源氏は、清和天皇の子で源姓を賜った経基王を祖先として広がりました。

 武士団の棟梁といっても土地への支配力や、従者との上下関係は強いものではありませんでした。武士団の棟梁はあくまで、朝廷から税の徴収や逆賊の追討を命ぜられ、はじめて正当な活動ができました。命令を遂行すると、組織した従者達もそれぞれ自分達の故郷へ帰っていきました。つまり武士団の棟梁の役割は、朝廷と地方をつなぐ役目だったのです。本来この役割は国司達が担うものでした。しかし荘園社会が発展すると、定められた国家の税以上に、地方には富が生まれていきました。これらの富を手にする者は、国司の介入に対抗して利権を守ろうとしました。そして中央の貴族や大寺社の権威に頼るため、土地を寄進し、自分達は荘園を管理する存在として、利権を握り続けました。やがて天皇を退位して、上皇となり政治を執り行う院政時代が到来すると、院は荘園を集積して、これらの富の一部を吸い上げていきました。つまり従来の律令制からは、朝廷にこれまで通り定められた税が納められ、経済発展とともに新たに余剰された富は、院をはじめとする権門といわれる大貴族・大寺社へと納められていったのです。これを荘園公領制といいます。藤原氏や比叡山延暦寺が代表的な権門ですが、鎌倉幕府も巨大な権門の一つです。

 このように武士の世は、荘園公領制の発展とともに、拡大していきました。武士は決して戦いだけで、無秩序に土地を奪いとっていく、野蛮な存在ではなかったのです。