荏柄天神社と関わりのある「歌ノ橋」を深堀!!

荏柄天神社と関わりのある「歌ノ橋」を深堀!!

2021年7月22日

 小冊子レキシノワ3号の「散歩に行こう!史跡を見よう!」(6P/7P)では、菅原道真ゆかりの荏柄天神社とその周辺の地図を取り上げました。今回はそこに記した「歌ノ橋」について深堀します。

歌ノ橋の由来

 荏柄天神社から南へ下った二階堂川が滑川に流入するあたりに「歌ノ橋」(鎌倉十橋のひとつ)と呼ばれる橋が架かっています。「歌ノ橋」は鎌倉時代の御家人渋川刑部六郎兼守が荏柄天神社の利生に預かり、橋を架けたと伝わります。

建保元年(一二一三)に、謀反の罪で捕らえられた御家人渋川刑部六郎兼守は、無実を訴えるため十首の和歌を荏柄天神社に奉納しました。翌日三代将軍の源実朝がこの和歌を見て感心し、兼守の罪を許しました。そして兼守は「已預天神之利生、亦蒙将軍之恩化、凡感鬼神、只在和歌者歟」と述べ、お礼に荏柄天神社の参道に橋を架けたことが、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」に記されています。

歌ノ橋に関する「吾妻鏡」の記事

「建暦三年(1213)二月大十六日丁亥。天晴。依安念法師白状。謀叛輩於所々被生虜之。所謂。一村小次郎近村〔信濃國住人。匠作被預之〕。籠山次郎〔同國住人。高山小三郎重親預之〕。 宿屋次郎〔山上四郎時元預之〕。上田原平三父子三人〔豊田太郎幹重預之〕。薗田七郎成朝〔上條三郎時綱預之〕。狩野小太郎〔結城左衛門尉朝光預之〕。 和田四郎左衛門尉義直〔伊東六郎祐長預之〕。和田六郎兵衛尉義重〔伊東八郎祐廣預之〕。澁河刑部六郎兼守〔安達右衛門尉景盛預之〕。和田平太胤長〔金窪兵衛尉行親。安東次郎忠家預之〕。礒野小三郎〔小山左衛門尉朝政預之〕。此外白状云。信濃國保科次郎。粟澤太郎父子。靑栗四郎。越後國木曾瀧口父子。下総國八田三郎。和田奥田太。同四郎。伊勢國金太郎。上総介八郎甥臼井十郎。狩野又太郎等云々。凡張本百三十余人。伴類及二百人云々。可召進其身之旨。被仰國々守護人等。朝政。行村。朝光。行親。忠家奉行之云々。此事被尋濫觴者。信濃國住人泉小次郎親平。去々年以後企謀逆。相語上件輩。以故左衛門督殿若君〔尾張中務丞養君〕。爲大將軍。欲奉度相州云々。」

「建暦三年(1213)二月大廿五日丙申。囚人澁河刑部六郎兼守事。明曉可誅之旨。被仰景盛訖。兼守傳聞之。不堪其愁緒。進十首詠歌於荏柄聖廟云々。」

「建暦三年(1213)二月大廿六日丁酉。晴。工藤々三祐高。去夜參籠荏柄社。今朝退出之刻。取昨日兼守所奉之十首哥。持參御所。將軍家依賞翫此道給。御感之餘。則被宥其過矣。兼守愁虚名奉篇什。已預天神之利生。亦蒙將軍之恩化。凡感鬼神。只在和哥者歟」

このように書かれています。