大宰少弐資能(だざいのしょうにすけよし)顕彰の碑(太宰府市)

大宰少弐資能(だざいのしょうにすけよし)顕彰の碑(太宰府市)

大宰府政庁自体は平安時代末期には荒廃していたようだが、高麗の牒状には「日本国惣官大宰府」や、寧波の「天一閣」に蒐集された石碑には「日本国大宰府博多津居住弟子丁淵」と刻まれているという。大陸の人々は、なお大宰府を窓口としていた。HAKATA TO ECOTOBA といいつつ、まだ博多を登場させられていないのは、大宰府あっての博多だったから。

その大宰府の守護人を務めたのが少弐氏(豊前、筑前、肥前、肥後、壱岐、対馬の守護)。

「少弐」の苗字は「大宰少弐」という官職に由来(もとは武藤を苗字とする鎌倉御家人)。

文永年間の大陸との外交。朝廷や幕府との交渉など、大宰府博多津を中心にした視点だと主役級の一族。ちなみに文永の蒙古合戦時、二代資能はすでに70歳代!!

激動の時代をリードした少弐資能顕彰の碑は、大宰府政庁跡の東、西戒壇院から山側に入って少し歩いた所にある。付近には供養塔もある。左が父の資頼で、右が資能の供養塔。

彼らの拠点は字名「御所ノ内」付近(現在の太宰府市役所あたり)にあったのではないか?とされる。

※レキシノエコトバは、蒙古襲来絵詞の時代を、絵詞に描かれていない時代背景を再現し、蒙古襲来絵詞を読み解くという、社会と史料が織りなす学びです。