安房国へ逃れた頼朝は、再起をかけて安房国掌握につとめます。第8回で安西景益の参陣に触れましたが、武士達の協力だけでは、平氏追討という大願は成し遂げられません。所領の確保も大事な施作の一つです。
そこで今回は、安房国にあった河内源氏ゆかりの地を、頼朝が巡検した箇所を読み、いつものように古記録読解のコツに触れたいと考えます。
原文は
吾妻鏡治承四年(1180)九月十一日条
「治承四年(1180)九月大十一日庚申。武衛巡二見安房國丸御厨一給。丸五郎信俊為二案内者一候二御共一。當所者。御曩祖豫州禪門〔頼義〕平二東夷一給之昔。最初朝恩也。左典厩〔義朝〕令レ請二廷尉禪門〔爲義〕御讓一給之時。又最初之地也。而為レ被レ祈二申武衛御昇進事一。以二御敷地一。去平治元年六月一日。奉レ寄二 伊勢太神宮一給。果而同廿八日補二藏人一給。而今懷舊之餘。令レ蒞二其所一給之處。廿餘年往時。更催二數行哀涙一云々。為二御厨之所一。必尊神之及二惠光一給歟。仍無レ障二碍于宿望一者。當國中立二新御厨一。重以可レ寄二附彼神一之由。有二御願書一。所レ被レ染二御自筆一也。」
現代語訳にうつると、
「武衛巡二見安房國丸御厨一給。丸五郎信俊為二案内者一候二御共一。」
武衛(頼朝)が安房国の丸の御厨を巡検された。
丸の五郎の信俊が案内の者としてお供をした。
※丸の御厨は、千葉県丸山町
※御厨は伊勢神宮の荘園。伊勢神宮の斎宮は天皇の皇女がつとめた。つまり天皇家と結びつきの強い荘園といえる。
「當所者。御曩祖豫州禪門〔頼義〕平二東夷一給之昔。最初朝恩也。」
この場所は、頼朝のご先祖である豫州(伊予守)禅門(出家して仏門にはいった)頼義が東夷を平定された昔、最初の朝恩という。
※頼義は頼朝の五代さかのぼった人物で、東北地方で起きた反乱、前九年合戦を平定した武将。東夷を平定された昔は、この前九年合戦を指す。そして丸の御厨は、反乱を鎮圧した恩賞として朝廷から賜った荘園だという。
「左典厩〔義朝〕令レ請二廷尉禪門〔爲義〕御讓一給之時。又最初之地也。」
左典厩(左馬頭の唐名)義朝が廷尉(検非違使を兼ねる衛門佐・尉の唐名)禅門為義に請い、お譲りされた最初の地だという。
「而為レ被レ祈二申武衛御昇進事一。以二御敷地一。去平治元年六月一日。奉レ寄二 伊勢太神宮一給。」
さらに武衛(頼朝)の御昇進を祈り申されるために、この荘園を去平治元年六月一日に、伊勢神宮に寄進された。
「果而同廿八日補二藏人一給。而今懷舊之餘。令レ蒞二其所一給之處。廿餘年往時。更催二數行哀涙一云々。」
寄進が認められ、頼朝は同月二十八日に蔵人に任命された。そして今、昔のことを思い出し、この地を訪ねたところ、二十余年の昔を哀しみ涙したという。
※頼朝は平治元年に上西門院の蔵人に任命された。
「為二御厨之所一。必尊神之及二惠光一給歟。仍無レ障二碍于宿望一者。當國中立二新御厨一。重以可レ寄二附彼神一之由。有二御願書一。所レ被レ染二御自筆一也。」
伊勢神宮の荘園になったので、必ず神の恵みを得られるという。よって宿願に障壁がなければ、安房国の中に新たな御厨を立て、重ねて伊勢神宮に寄付すると、御願書を自筆で認めました。
今回とりあげた箇所は、河内源氏ゆかりの地をどのように得て、なぜ伊勢神宮に寄進したかが書かれています。ここからわかるのは、所領の伝領の推移です。はじめに丸の所領は朝廷から賜った確かな地であることを述べています。さらに義朝が為義から最初に譲られた場所が、丸の地だといいます。そして義朝が、頼朝の昇進を願って丸の所領を伊勢神宮に寄進したら、瞬く間に昇進したといいます。
ここからわかるのは、朝廷から得た所領は、朝廷に深い関わりを持つ伊勢神宮に寄進し、また恩恵を賜るという公的な循環をもって、家門の繁盛を図っていることです。こうした河内源氏にとって由緒のある吉土が、丸の所領だといっています。
さらに平氏追討という宿願が叶ったなら、重ねて安房国の中の地を寄進すると、神に約束をしています。
頼朝は確かなる地を自ら確認し、天皇家に深い関わりのある伊勢神宮への寄進行為によって、正当性を表明したのです。
今回は、所領の変遷と御厨の関係をふまえて読解しました。