人物紹介~平清盛~

人物紹介~平清盛~

2020年9月13日

 平安時代末期に平氏の最盛期を築いた人物。平清盛は積極的に中国との交易(日宋貿易)をおこない巨万の富を築いた。また厳島神社(広島県)に多大な寄進をして、今につたわる平家納経を納めた。後白河院と協力・反目を繰り返しながらも政治を掌握し絶大な権勢を振るった。しかし平治の乱で破った源義朝の子頼朝を処刑せず流罪にしたことで将来に禍根を残した。

 平清盛は伊勢平氏の棟梁平忠盛の嫡男として永久六年(一一一八)に産まれた。母と出生には諸説があり定かではない。順調に昇進を遂げ、仁平三年(一一五三)父忠盛の死去にともない家督を継いだ。

 保元の乱で後白河天皇方につき勝利すると、播磨守・太宰大弐に任じられた。続く平治の乱では、二条天皇が御所から清盛邸に逃れてくると、天皇を擁して藤原信頼と源義朝の反乱軍を破る活躍を見せた。後妻の時子が二条天皇の乳母だったことで天皇の信任を得る。一方、後白河院の院庁で別当もつとめた。

 二条天皇の信任を受け天皇の親政を補佐しながら、関白近衛基実には娘の盛子を嫁がせ、摂関家とも関係を築いた。こうして清盛は貴族社会に武士が入っていく道筋をたて、武士の存在力を高めた。

 信任の厚かった二条天皇が若くして崩御すると、後白河院と妻時子の妹滋子の間に産まれた憲仁親王(後の高倉天皇)が親王宣下を受け、やがて幼い六条天皇の立太子となる。そして清盛は春宮大夫・内大臣・太政大臣と人臣の位を極めていく。しかし仁安二年(一一六七)嫡子重盛に家督を譲り自らは政界からの引退を示した。

 翌年、一時危篤になるほどの病を乗り越えた清盛は、出家して摂津国福原の別荘に籠り、日宋貿易に力を入れる。後白河院は清盛の力を必要として六条天皇に譲位をせまり、平氏に近い高倉天皇を即位させた。そして清盛は即位した高倉天皇に娘の徳子を入内させ、天皇家との結びつきをさらに確かなものとする。

 こうして平氏の権力は盤石なものとなったが、後白河院の妃滋子(建春門院)の死をキッカケとして築いた基盤にヒビが入っていく。平氏政権は武士でありながら、貴族社会に入り込み、朝廷や院と協調することで成り立っていた。もともと院・貴族社会・平氏政権は利害関係でぶつかる要素がたくさんあり、その緩和のために平氏一門につながる女性を嫁がせ、血縁関係を結びバランスをとっていた。滋子は、後白河院をはじめとする院の勢力と平氏勢力の間に入り、両者の衝突を回避する緩衝的な存在であった。このため滋子の死をキッカケに、院と平氏の軋轢が表面化していった。

 治承元年(一一七七)に鹿ヶ谷の陰謀といわれる平氏打倒の計画が発覚すると、清盛は陰謀に関わった後白河院の近臣を処罰した。さらに二年後、近衛基実に嫁いでいた娘の盛子が亡くなると、後白河院は遺領である摂関家伝領の荘園を没収した。この処置を事前に知らされていなかった清盛は激怒した。滋子が生きていればこのようなことはなかったであろう。こうして後白河院と平氏の関係は一気に冷え込み、治承三年清盛による政変が断行される。

 治承三年の政変は、反平氏とみられた多くの公卿や院近臣を解官させ、平氏寄りの公家を任官した。この政変により平氏の知行国は激増し、全国の半分に及んだ。そして後白河院を洛南の鳥羽殿に幽閉して院政を完全に停止させた。後白河院を排除した清盛は翌年、高倉天皇を譲位させ、わずか三歳の安徳を帝位につけた。この一連の恣意的な政策は敵対勢力の結合をうみ、以仁王の乱をキッカケとして一気に反平氏の挙兵を即すこととなる。

 反平氏勢力は公家や武士だけでは無かった。寺社勢力も強大であった。中世の大寺社は武力を備え、朝廷や院にたびたび政治的な要求を迫った。延暦寺や園城寺・興福寺などの僧兵は特に恐れられた。この寺社勢力も敵に回した平氏は窮地に陥り、四面楚歌の平安京から福原への遷都を強行した。福原遷都は平氏一門の中にも反対する者が出たようで穏やかな政策ではなかった。

 平氏が遷都事業に追われる中、以仁王による平氏追討の令旨をうけた源頼朝が伊豆国で挙兵すると、甲斐国でも甲斐源氏が立ち上がり、信濃国では木曽義仲が兵を挙げた。

 ちょうど今、読解として取り上げている「吾妻鏡」はこの時期にあたる。

 よってこの後は詳述しないが、平氏の栄華を築いた清盛は翌年、急病を発し高熱にうなされながら亡くなった(享年64歳)。