古記録を吾妻鏡から読む。1回目が返り点について・2回目が読解だったので、第3回目の今回は助詞を補う点について解説を加えてみる。
読む箇所は頼朝挙兵の場面をとりあげる。頼朝が以仁王の平氏追討をうながす令旨を受け取り、三善康信から自身の身に危機が迫っていることを聞いた頼朝は、ついに平氏追討の挙兵を決断する。手始めに平氏方の伊豆国の目代、山木兼隆を討つ計画を立て、挙兵を実行に移す。
『吾妻鏡』治承四年(一一八〇)八月十七日条
「三嶋社神事也。~中略~。子尅。牛鍬東行。定綱兄弟留二于信遠宅前田頭一訖。定綱。高綱者。相二具案内者一〔北條殿雜色。字源藤太〕廻二信遠宅後一。経高者進二於前庭一。先發レ矢。是源家征二平氏一最前一箭也。于レ時明月及レ午。殆不レ異二白昼一。信遠郎従等見二経高之競到一射レ之。信遠亦取二太刀一。向二坤方一立二逢之一。経高棄レ弓取二太刀一。向レ艮相戦之間。両方武勇掲焉也。経高中レ矢。其刻定綱・高綱自二後面一来加。討二取信遠一畢。~後略~」
傍線部にあるよう、この箇所が平氏に対する武力行使のはじまりとなった。
難解だが、さっそく訓読しながら助詞を補ってみたい。補った箇所はカタカナで記す。
「三嶋社ノ神事也。~中略~。子ノ尅。牛鍬ヲ東ヘ行ク。定綱兄弟ハ信遠宅前ノ田頭ニ留マリ訖(おわん)ヌ。定綱・高綱者(ハ)、案内ノ者(もの)ヲ相具シ(北條殿ノ雜色、字ハ源藤太)信遠宅ノ後ヲ廻リ、経高者(ハ)前庭ニ進ム。先矢ヲ發ス。是、源家ガ平氏ヲ征ス最前ノ一箭也。時ニ明月ハ午ニ及ブ。殆ド白昼ニ異ラズ。信遠ノ郎従等ハ経高ノ競到ヲ見テ之ヲ射ル。信遠亦太刀ヲ取リ、坤ノ方ニ向ヒテ、之ニ立チ逢ウ。経高ハ弓ヲ棄テ、太刀ヲ取リ、艮ニ向イ相戦ウノ間、両方ノ武勇ハ掲焉スル也。経高ハ矢ニ中ル。其ノ刻、定綱・高綱ガ後面ヨリ来リテ加ワリ、信遠ヲ討チ取リ畢(おわんぬ)。~後略~」となる。
コツは音読みすることである。例えば「牛鍬東行」は「うしすきトウギョウ」でも意味は通る。しかし音読みすることで「牛鍬ヲ東ヘ行ク」となり「○○を○○へ○○する」というのが明確になる。つまり、いつどこで誰が何をしたかがわかりやすくなる。ただでさえ古記録は主語が省略されている場合が多い。この場合も「うしすきトウギョウ」では「牛鍬」が「東へ行く」と間違える可能性がある。音読みをして適宜助詞を補うことで文意が通り理解しやすくなる。
それから「ノ」をできるだけ多用して、不要な部分の「ノ」を後から省くくらいがよい。例えば現代人は「織田信長」を「おだのぶなが」と呼ぶ。しかし中世人は「おだののぶなが」と読む。もっというと「織田上総介信長」を「おだのかずさのすけののぶなが」と読む。これは名字の織田が、信長の氏族がかつて所領としていた越前(今の福井県)の織田という地名にちなむ。織田氏は平姓だった。平姓の者はたくさんいるので、(越前国)織田にいる平さんとなり、やがて「織田の○○」と呼ばれるようになったのである。
これは官位も同じである。「二位尼」は「にいのあま」、「三位中将」は「さんみのちゅうじょう」と読む。反対に省く場合を取り上げると、「御成敗式目」は「御成敗」と「式目」からなる語であり、「御成敗の式目」でもよいように思う。しかし「御成敗式目」で一つの熟語として成立しているので「の」を省いても差し支えないケースだと考える。
さらに動詞や形容動詞の後に「ス」や「スル」を加えることも重要である。今回の場合だと、「是源家征二平氏一最前一箭也」の「征」を「征ス」および「征スル」と読むことで誰が何をするかが明確になる。また「両方武勇掲焉也」は「両方の武勇は掲焉なり」でも文意は通る。しかし「両方の武勇は掲焉するなり」と読むことで、誰がどうしたということがわかりやすくなる。
このように古記録や古文書の文章は適宜、助詞を補うことで、主語と述語の明確になり、いつどこで誰が何をしたかが理解しやすくなる。ちょっと多すぎるのではないか?と思うくらい助詞を補ってみると文意が整理され、誤った解釈の可能性も減るのではないだろうか。