日本初の本格的な武家政権の時代といわれる鎌倉時代だが、すべては平安時代の延長にあるといってよい。特に平安時代末期を理解することが鎌倉時代を知る早道である。ただし一口に時代といっても政治・社会・経済・文化など時代を構成する要素は多い。そこで何回かにわけて時代について述べていく。今回は「経済」にかかわる内容をまとめてみる。
平安時代といっても、794年に平安京へ遷都がおこなわれ、鎌倉時代がはじまるまで約400年ほどもある。この400年の間に経済は質を変え、発展を遂げているので幅広く奥が深い。そこで今回は経済発展に関わる重要な要素「対外貿易」に的をしぼってみる。
平安時代の中頃、日本が律令や仏法を学んだ中国の唐が滅びると、東アジア社会は大転換期を迎える。朝鮮半島では新羅が高麗によって滅ぼされ、モンゴル地方東南部から満州にかけて契丹族の遼朝が興った。中国では動乱の末、宋王朝が覇権を打ち立てた。この「宋」王朝は、官人を勉学試験で採用する科挙の制度を整備して、文治国家を推し進めた。このため飛躍的に知識レベルが高まり、あらゆる分野で工夫と発明がおこなわれ、商品経済が活性化して経済発展につながった。
「宋」代の三大発明とされる羅針盤・火薬・活版印刷は画期的な発明だった。羅針盤は航海、火薬は戦い、印刷は本の大量生産と今日まで用いられている。また農業器具と灌漑の整備により、江南地域は特に生産力がアップした。首都開封につながる運河を整備すると流通が活性化した。首都開封の繁栄は、清明上河図(せいめいじょうがず)から知ることができる。
未曾有の経済発展を遂げた宋の通貨は、国際的に通用し、我が国にも大量に輸入された(宋銭)。この日宋貿易を掌握していったのが、平清盛の父、忠盛である。平忠盛は肥前国神崎庄で独自に交易をおこない、嫡子の清盛は太宰府の長官である太宰大弐に付き、貿易港の博多を掌握した。また厳島神社を改築し、人工の港大輪田泊を築くなど、瀬戸内海の航路を整備した。
平氏は日宋貿易によって得た莫大な利益と、一族を朝廷内の高位高官に就かせ、圧倒的な権力を築いた。
平氏政権によって推し進められた日宋貿易は、平氏滅亡後も民間レベルで続けられた。西日本の日本海側各地には「唐坊」(とうぼう)といわれる中国人商人による町が形成され、貿易の拠点となった。宋から伝わった陶磁器や水墨画、茶や仏教文化は日本人の心に根付き、現代に伝わるものも少なくない。
頼朝も費用を寄進して、再建にあたった東大寺の大仏建立では、宋人の陳和卿が工人を率いて活躍した。このように平安時代から鎌倉時代にかけての「対外貿易」は、経済だけにとどまらず多方面にわたって我が国に強い影響を与えた。