史料講座 第5回. 頼朝による関東施行の始まり〜下文〜

史料講座 第5回. 頼朝による関東施行の始まり〜下文〜

2020年9月10日

 頼朝は山木兼隆を討った翌々日、兼隆の親戚史大夫知親が横暴な振る舞いをしていた伊豆国蒲屋御厨に、民が嘆いているので止めるよう命令を下す。この命令書を「下文」という。今回はこの「下文」を取り上げ古文書の様式について解説を加えてみる。

ちなみに本日取り上げる「下文」が、頼朝による「関東の事を施行する始まり」となった。まさに頼朝政権発足の文書といえる。

下文の該当する部分を以下赤字で掲載する。

『吾妻鏡』治承四年(一一八〇)八月十九日条

「己亥。兼隆親戚史大夫知親。在當國蒲屋御厨。日者張行非法。令乱土民之間。可止其儀之趣。武衛令下知給。邦道為奉行。是関東事施行之始也。其状云。


  下 蒲屋御厨住民等所
   早停止史大夫知親奉行

 右。至
干東國者。諸國一同庄公皆可御沙汰之旨。 親王宣旨状明鏡也者。住民等存其旨。可安堵者也。仍所仰。故以下。
    治承四年八月十九日

~後略~」

 まず「下 蒲屋御厨住民等所 早停止史大夫知親奉行事」の書き出しにあたる「下」(くだす)は、上位機関から下位に向かって出される命令書で「下」からはじまる。だから「下文」といわれる。「下文」は当時ひろく用いられ、院・貴族・大寺社などの荘園領主は荘園に対して「下文」を以って命令を下した。鎌倉時代に将軍家が発給した「下文」は「将軍家政所下文」といわれる。

 つぎに宛先の「蒲屋御厨住民等所」がきて、「可早停止史大夫知親奉行事」の「事書」と呼ばれる今でいう見出しのような一文が書かれている。だから「下」の後に、どこまで「〜事」が続いているかを見ると、文章が何を意味するのか大雑把にわかるようになっている。

今回も「蒲屋御厨住民等」の後は「早く史大夫知親の奉行を停止(ちょうじ)す可き事」となっているので、この「下文」は、「知親の政務を停止する事を蒲屋御厨住民等に伝えている」とわかる。

ちなみに「蒲屋」は、伊豆国蒲屋(静岡県下田市田中)と比定されている。

「御厨」は伊勢神宮に神饌を貢進する所領で、伊勢神宮の荘園的性格をもつ場所をいう。

事書の後は日付までが「本文」または「事実書」といわれる内容の部分である。

まず「右」だが、昔の文書は右から左へ縦書きに書かれる。このため「右」は手前にあたり、今回でいうと「下 蒲屋御厨住民等所、可早停止史大夫知親奉行事」にあたる。つまり「見出しの内容は〜、」という意味となる。

本文を訓読すると

「東国に至っては、諸国一同庄公皆御沙汰たるべきの旨、親王宣旨の状に明鏡なり、てえれば住民等は其の旨を存じ、安堵すべきものなり。仍って仰せのところ、ことさらに以って下す」となり、日付の「治承四年八月十九日」がくる。

 本文の用語について説明を加えると、庄公は庄園および公領の事である。この庄園と公領に関する当時の社会の仕組みは、別稿の荘園で述べたので参照されたい。ちなみに現在一般的には「荘園」と書かれているが、当時の史料ではほぼ「庄園」と書かれている。

 次の御沙汰は、貴人の指示や命令をいう。

つまり、「東国においては諸国一同に庄園・公領へ指示せよ。という御命令は、親王(以仁王を指す)の宣旨に明白である」という。

 親王は親王宣下を受けた天皇の兄弟や皇子、女子は内親王に限られる。以仁王は親王宣旨をうけていなかったので「王」と称した。以仁王は平氏追討の挙兵と共に最勝親王を自称した。

 また宣旨は、天皇の勅命を下す文書(=勅旨)を宣して下達する命令書である。よって親王は宣旨を発給することはない。親王が出す命令書は令旨という。つまり今回の場合は、「親王令旨状明鏡也」が正しい。ただ以仁王の親王自体が自称なので本来は公的な効力を持たないはず?、。、。、。

しかし頼朝の挙兵は最勝親王を自称した以仁王の令旨によって進められ、やがて後白河によって頼朝の存在が認められると、以仁王の令旨を正当なものとして活動していた。頼朝の行為は公的に許された。このため以仁王の令旨を掲げて活動した期間の頼朝の沙汰は正当化された。そういう意味では、以仁王の令旨は結果的に効力を持ったともいえる。まさに「勝てば官軍」である。

 さて本文に戻ると、つぎの「者」は「てえれば」や「てえり」と読む。意味は「者」より前は誰かが述べる内容で、今でいうカギカッコのような意味がある。つまりここでは「東国に至っては〜」からはじまる宣旨の内容が「者」までという意味になる。

「者」はよく「云〜◯◯〜者」と使われ、「云」の次から「者」の手前までがカギカッコ内となる。「者」は中世では様々な使われ方をしていた。今回のようなカギカッコの意味を持つ「者」(てえれば・てえり)や、助詞の「者」(ハ)、現代人が一般的にイメージする「者」(もの)など「者」という漢字は同じでも、意味の全く異なる使い方がされていた。これらの見分け方は文意から判断するしかなく、慣れが必要となる。

 さて本文に戻ると「者」(てえれば・てえり)の後は、「住民等に其旨(以仁王の宣旨の内容)を理解し、安堵(安心)するように」と続くが、ここは特に難しい所は無い。

次の「仍所仰。故以下」は「下文」文末の定型文で、

「よって仰せのところ、ことさらにもって下す」と読む。意味は頼朝の命令は以上である。だから書いて下します」という意味。頼朝が以仁王の宣旨(実際は令旨)を受けて、御厨の住民に命令する為、その内容を家来に書かせて伝えているからこのような言い回しになっている。当時、貴人が直接下の者に文書を出すことはなかった。主人の意を奉じた者が、文書や言葉で伝えた。

 文末の定型文は「恐々謹言」や「仰。執達如件」などいくつかあるが、古文書ではかなり崩された書き方の場合が多い。いくつかの定型文を覚えておくと崩し字を読む際に便利だと思う。

 本文(事実書)の後は「日付」が来る。「日付」は文書が発給された日。

また本来はどこかに頼朝の「花押」もあったはずだが、省かれて掲載されている。「花押」とは、差出人の意匠化された自署である。元々は「花押」のみで誰の文書か特定していたが、鎌倉時代に入ってから武士達が、名前と花押の両方を書くようになり、一般的となった。「頼朝(花押)」というような形である。以降はこの形式が一般的となり、今でも公的な文書には名前を書き印を押している。

 このように「下文」は、「事書」「本文」(事実書)「日付」と「花押」からなる当時広く用いられた上意下達の文書様式である。

「下文」以外にも、中世の文書はたくさん残っており、とても奥が深い。また機会をみて別の文書もとりあげようと考える。