人物紹介~以仁王~

人物紹介~以仁王~

2020年8月29日

 後白河院の第三皇子。兄に守仁親王(二条天皇)、守覚法親王、異母弟に憲仁親王(高倉天皇)がいる。守覚法親王が出家していたため、「吾妻鏡」では「二宮」と書かれている。三条高倉に邸宅があったので三条宮・高倉宮と呼ばれた。

鳥羽天皇の皇女暲子内親王(八条院)の猶子(相続権の無い親子関係。養子は相続権がある)となるが、平清盛と関係の深い異母弟の憲仁が即位したので、皇位継承の可能性は無く不遇をかこっていた。

治承三年十一月に清盛が、後白河院を幽閉・関白近衛基房および反平氏の貴族を追放すると(治承三年の政変)諸国の諸勢力に動揺が走った。不穏な空気が漂う中、清盛は翌年四月に安徳天皇をわずか三歳で即位させ体制の強化を計った。

 こうした最中、以仁王に突如として遠流の宣旨が下され、追捕の兵が差し向けられた。この動きを直前に察知した以仁王は園城寺へ逃れた。

以仁王が園城寺に隠れていることを知った平氏方は、源頼政らに追討させたが、頼政は途中で平氏方に反旗を翻し以仁王に加担した。

園城寺では平氏方に対抗しきれないと判断した以仁王と源頼政は、南都(奈良)の興福寺を目指した。しかし宇治で平氏方に追いつかれ合戦となった。

頼政は平等院に籠り、子息等とともに自刃。以仁王も光明山の鳥居の前で亡くなったという(享年30歳)。こうして以仁王と源頼政による平氏討伐の挙兵はあっけなく失敗した。しかし以仁王が諸国に発したといわれる平氏追討の令旨は、頼朝をはじめとする反平氏の挙兵へつながり、五年後ついに平氏は壇ノ浦で滅亡し、彼らの願いは結実した。