※画像(以前撮ったもの。他の画像は遊覧と飲み会のイメージ😅)は京都市東山区池殿町。どこかに平頼盛の邸宅「池殿」があったと考えられる(町名として残っているのが素敵😆)。付近は平氏一門の邸宅が軒を連ねた六波羅(六原)。
さて平頼盛について。彼は清盛の異母弟。頼朝を死罪から救ったといわれる池禅尼(いけのぜんに)の子。高倉上皇は六波羅にあった頼盛の邸宅、「池殿」で崩御している。頼盛のおうちは平家一門の主流とは別の勢力を形成した。当時、超一級の実力者。
平頼盛は平家一門の都落ちには同行せず、元暦元年(1184)には鎌倉へ来ていた。鎌倉のどこにいたんでしょう🤔
⭕️『吾妻鏡』元暦元年(1184)五月十九日条に、頼朝と遊ぶ頼盛の姿
⚫︎原文
武衛相伴池亞相〔此程在鎌倉〕右典厩等、逍遥海濱給、自由比浦御乗船、令着杜戸岸給(後略)。
⚫︎読み下し(用語を補いながらの変則バージョン)
武衛(ぶえい。つまり源頼朝。武衛は兵衛府の唐名とうみょう。別のカッコつけた呼び方)、池亞相(いけのあしょう。平頼盛。亞相は大納言の唐名)〔此程、鎌倉に在り〕・右典厩等(左典厩の間違い。さてんきゅう。これも左右馬寮の唐名。一条能保)を相伴(しょうばん。連れて)し、海浜を逍遥(しょうよう。つまり遊び)したまう。由比の浦(鎌倉の浜)より御乗船し、杜戸の岸(葉山の森戸海岸あたり)へ着かしめたもう。
⚫︎意訳
頼朝は頼盛と一条能保を連れて、船で鎌倉から森戸に遊びにいきました。
⚫︎感想
源平相並んで超優雅❗️
そして頼朝は頼盛が京都へ帰る際にこれでもかと優遇^ ^
⭕️『吾妻鏡』元暦元年(1184) 六月五日条
⚫︎原文
「池前大納言被皈洛、武衛令辞庄園於亞相給之上、逗留之間、連日竹葉勧宴酔、塩梅調鼎味、所被献之、又金銀盡数、錦繍重色者也、」
⚫︎読み下し(こんどはひらがなで^ ^)
いけのさきのだいなごんきらくせらる。ぶえいあしょうにしょうえんをじせしめたまうのうえ、とうりゅうするのあいだ、れんじつちくよう(酒)のえんすいをすすめ、あんばいていみをととのえ、これをけんぜらるところ、またきんぎんかずをつくし、きんしゅういろをかさねるものなり
⚫︎意訳
頼朝は頼盛に所領を返した。さらに酒や豪華な食べ物でもてなし、金銀を与えた。
⚫︎感想
頼朝と頼盛、超仲良し‼️恩and恩🤝
▶️レキシノワ講座9/14「屋島の伝説❗️」までのこぼれ話。講座では、時間があれば、この時の頼盛の所領を見てみよう👀相博(変えっこ)した所領に注目🤭
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