天正二十年(一五九二)朝鮮出兵の際に、門司と下関に寄った秀吉の縁者である木下勝俊(後の木下長嘯子)は、 『九州のみちの記』に次のように書いている。
「もしの関(門司の関)にもなりぬ。さのみ舟のうち波の上もたへかたくて、あかまか関(赤間ヶ関)にあかりにけり。ある寺(阿弥陀寺、現在の赤間神宮)に、先帝のみかたち(安徳天皇)、并(ならび)に一門の公卿殿上人、局内侍以下まて(平家一門と女官たち)、はかなきふてのあとにのみうつしをきたり」と、阿弥陀寺(あみだじ)を訪れ、安徳天皇・平家一門の像を拝したことを記す。
そして「世へたたりたることゝおもへと、其時のこゝろうさ(心憂さ)、しづみ(沈み)給しありさままて、かすかす(数々)におもひ出られてかなしく覚えけれは」
『所せく 袖そぬれけるこの海の むかしをかけし なみのなこりに』
と、壇ノ浦で入水した安徳天皇と平家一門の、心と有り様に想いを馳せ、一首を詠んでいる。
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画像は木下勝俊(後の木下長嘯子)が訪れた壇ノ浦や阿弥陀寺(現、赤間神宮)周辺(昨年8月に訪れた時のもの)