後白河法皇と平氏を繋いだ高倉天皇の御陵

後白河法皇と平氏を繋いだ高倉天皇の御陵

 高倉天皇は後白河院と平滋子の間に生まれました。母の滋子は平清盛の妻、時子の異母妹で、後白河院と対立関係にあった二条天皇派を抑え込む形で、仁安3年(1168年)2月19日、8歳で即位します。承安2年(1172年)、平清盛と時子の娘である徳子(建礼門院)を中宮に迎えました。治承2年(1178年)11月12日には2人の間に言仁(安徳)が誕生します。

 自身に連なる待望の男子を得た清盛は、同年12月15日に皇太子としました。翌年には清盛による治承三年の政変がおこり父、後白河が幽閉されると親政をおこない、安徳に譲位後は院政を開始します。しかし間もなく病に倒れ、治承5年(1181)1月14日、六波羅の池殿で崩御しました。

 この時、高倉上皇の遺詔により清閑寺の小堂へ遷され、東山山麓で火葬の後、法華堂に葬られます(高倉院法華堂、清閑寺法華堂等)。同地は高倉天皇最愛の寵妃小督が出家隠遁していた場所でした。高倉は清盛によって引き裂かれた二人の間を、死後はせめて一緒に在りたいと願ったのです。現在、清閑寺を訪れると小督剃髪の本堂があります。

そしてこの場所からは六波羅や京都の街が一望でき、時代に翻弄された歴史と舞台を目にする事ができます。