※ 訴訟文書の審理や訴論人の召喚対決、訴訟記録の作成などを行なった。
これも一ノ谷の戦いと屋島の戦いの間の1184年。
執事に三善康信。
この後、三善氏およびその子孫町野・太田氏が世襲していく。
その中の1つのヒストリーを
過去にひろった記事も♬その名も問注所氏🤣
鎌倉のとっておき〈第20回〉 鎌倉の史跡〜問注所〜 | 鎌倉 | タウンニュース (townnews.co.jp)
さて問注所開設の記事。
⭕️吾妻鏡 元暦元年(1184)十月廿日条
●原文
諸人訴論対決事、相具俊兼、盛時等、且召決之、且令注其詞、可申沙汰之由、被仰大夫属入道善信云々、仍點御亭東面廂二ケ間、為其所、号問注所、打額云々、
⚫︎読み下し(今日は適度に漢字を交えて)
諸人訴論対決の事。俊兼・盛時らをあい具し、かつうはこれを召し決し、かつうはその詞を注さしめ、申し沙汰すべきの由、大夫属入道善信(たいふのさかんのにゅうどうぜんしん)に仰せらるとうんぬん。よって御亭の東面廂二ケ間を点じ、その所とす。問注所と号し、額を打つとうんぬん
⚫︎意訳
源頼朝は、三善康信に俊兼・盛時らとともに訴訟を受け付けるように命じた。自分ち(大倉亭)東側の一部をあて問注所にしたという。
⚫︎感想
平家没官領をもらっても大変だね
#1184年は鎌倉幕府成立の中で重要な時期
#一ノ谷と屋島の間
#平家没官領
#謀反人跡
#関東御領
#兵糧米徴収
#平氏だけではないデカイ課題
#頼朝もシンドイ
#義経どこいく?
#後白河もいる
#問注所氏として戦国時代さらに江戸時代へへ