小冊子レキシノワ四号では、北条時政と北条一族の繁栄を「迫力の三つ鱗ヒストリー」と題して特集しました。ここでは北条時政の菩提寺「願成就院」に関する史料から、その歴史に迫ります。
〇「吾妻鏡」文治五年(一一八九)六月六日条
「~前略~爲北條殿御願、爲祈奥州征伐事、伊豆國北條内、被企伽藍營作、今日擇吉曜、有事始、立柱上棟、則同被遂供養、名而号願成就院、本尊者阿弥陀三尊、并不動多聞形像等也、是兼日造立之尊容云々、北條殿直被下向其所、殊加周備之莊嚴、令致鄭重之沙汰給、當所者、田方郡内也、所謂南條、北條、上條、中條、各並境、且執嚢祖之芳躅、今及練若之締搆云々、」
赤くした部分が「願成就院」を建立する経緯を述べた部分です。
頼朝による奥州藤原氏征伐の成就を願って、建てられたことがわかります。
本尊には運慶によって造像された阿弥陀三尊と不動多聞形像等を安置しました。
〇「吾妻鏡」文治五年(一一八九)十一月二十四日条
「北條殿下向伊豆國、是奥州征伐之後、可建立一伽藍之由、六月御立願之間、已於北條及其沙汰、仍爲奉行云々、」
北条時政は奥州征伐の祈願が成就したら、その報恩に報いるため新たに伽藍を建てると約束していました。無事、奥州征伐を勝利で収めたので、伊豆に向かったことがわかります。
〇「吾妻鏡」文治五年(一一八九)十二月九日条
「又伊豆國願成就院北畔、爲被搆二品御宿舘犯土、忽掘出古額、其文、願成就院云々、星序之運轉、遠近雖難量、露點之鮮妍、蹤跡猶無消、凡件寺、依泰衡征伐御祈、北條殿草創之、群黨逆乱、速伏白刄、兩國靜謐、併如丹祈、寺号又任御心願之所催、兼被撰定之處、重今依無一字之依違有自然之嘉瑞、即加修餝、可被用于當寺之額云々、誠是希代之嚴重、濁世之規摸、何事如之、以始察後、引古思今、佛閣之不朽、武家之繁營、不可違此額字者歟、」
願成就院の北に、頼朝邸を建てようと土を掘ったら、「願成就院」と書かれた古額が出てきたという。奥州合戦の成就といい、この古額の現象といい、この仏閣が朽ちなければ、武家が繁昌することは、この額の字からも間違いないという。
〇「吾妻鏡」建久五年(一一九四)三月二十五日条
「於伊豆國願成就院、被修如法經十種供養、是爲被訪祐親法師景親已下没後也、」
願成就院において、伊藤祐親や大庭景親以下の亡くなった人々の供養がおこなわれました。
〇「吾妻鏡」建久五年(一一九四)七月二十三日条
「江間殿令下向伊豆國給、願成就院有破損事、爲被加修理云々、」
江間殿(=北条義時)が伊豆へ赴き、願成就院の破損を修理したという。
〇「吾妻鏡」建久五年(一一九四)十一月十日条
「姫君又御不例、諸人群參、幕府物忩、依之被奉神馬於三嶋社、新田六郎爲御使首途云々、依此事、江間殿自伊豆國被馳參、爲願成就院修理、日來在國云々、」
頼朝の娘(大姫)が病気となったので、三島神社に神馬を奉納することになった。このことによって願成就院の修理のために伊豆にいた北条義時は、すぐに鎌倉へ馳せ参じたという。
〇「吾妻鏡」建久五年(一一九四)十一月二十三日条
「北条殿・江間殿等自三嶋歸參、願成就院修理事終云々、」
北条時政と義時が三島より鎌倉へ戻ってきました。願成就院の修理が終わったからだといいます。
〇「吾妻鏡」建久六年(一一九四)正月二十日条
「北條殿被下向伊豆國、是願成就院修正以下年中佛事條々、依被定下之、爲令執行也、」
北条時政が伊豆国へ向かいました。これは願成就院の供養・仏事などを定められたので、執り行うためです。
〇「吾妻鏡」建久六年(一一九四)十二月十六日条
「於伊豆國願成就院、可奉崇鎭守由、有其沙汰、是去比、寺中毎夜有恠異等、所謂、或以飛礫打破堂舎扉、天井動搖如人之歩云々、妖不勝于徳、佛神崇敬無其詐者、魔鬼障旱、有何危哉、」
この日、願成就院に鎮守を奉るよう命令がありました。これは怪異が続いたためです。
〇「吾妻鏡」正治二年(一二〇〇)正月十三日条
「~前略~、又伊豆國願成就院北隣者、幽靈在世御亭也、而今爲北條殿沙汰、被定佛閣、令奉安置阿弥陀三尊、并不動地藏等形像給云々、凡駿河伊豆相摸武藏等國中佛寺各修追善、於海道十五ケ國内可然輩、或堂舎、或營修善云々、」
願成就院の北隣は昨年亡くなった頼朝公の邸宅がありました。これを時政の沙汰で菩提寺とし、阿弥陀三尊像や不動地蔵等を安置したといいます。さらに駿河伊豆相摸武藏等の國中の佛寺で追善の法事を行い、東海道十五国内のしかるべき者は、堂舎や営を修繕したといいます。
〇「明月記」元久二年(一二〇五)閏七月
北条時政が牧氏の変によって失脚し、伊豆北条に引退しました。時政は伊豆山に幽閉され、出家したといいます。
〇「吾妻鏡」承元元年(一二〇五)十一月十九日
「爲遠州禪門御願、伊豆國願成就院南傍、被建立塔婆、今日被遂供養、本佛者大日五佛等尊容云々、」
北条時政法師の願いにより、願成就院の南に塔婆(三重塔)が建てられました。今日、開眼の供養を遂げられました。本尊は大日如来を中心とした五智如来だといいます。
〇「閑谷集」承元元年(一二〇五)十一月
閑谷集の作者が北条御塔供養の話を聞き、願成就院を訪れる。
〇「吾妻鏡」建保三年(一二一五)十一月十九日
願成就院において南新御堂の供養が行われました。本尊は阿弥陀三尊・四天王像だといいます。これは北条義時の願いによって新しく建てられたものです(同年に父時政がなくなっている)。
〇「承久三年四年日次記」承久四年(一二二二)正月
願成就院を定額寺に定める。
〇「吾妻鏡」寛喜二年(一二三〇)十月十六日
「今日、武州御願北條御堂上棟也、左近入道々然・齋藤兵衛入道淨圓爲奉行、」
北条泰時の願いによって御堂の上棟が行われました。左近入道道然(尾藤景綱)と斎藤兵衛入道浄円(藤原長定)が奉行です。
〇「吾妻鏡」嘉禎二年(一二三六)六月五日
「~前略~、今日、武州於北條修右京兆十三年追善給、正日雖爲來十三日、故被引上之、此間、願成就院北傍、建立塔婆、本尊則大日釋迦弥陀等尊像也、行曼茶羅供、被遂供養儀、大阿闍梨庄嚴房僧都行勇、讃衆十二口、右馬助・民部少輔等取阿闍梨布施、駿河伊豆兩國以下御家人群參作善、武州殊令致丁寧沙汰給云々、」
北条泰時が父義時の十三回忌の法事を執り行いました。命日は十三日ですが前倒しでおこなっています。この準備に願成就院の北側に塔婆(三重塔)を建てました。本尊は大日如来・釈迦如来・阿弥陀如来の三像です。そして曼荼羅供養の法要を行いました。導師は退耕行勇で、十二人の御坊さんが参加しました。また陸奥右馬助(北条実泰?)・民部少輔三条親実がお布施を持ってきました。駿河・伊豆の御家人も集まってお祈りをしました。北条泰時は丁寧にとりおこなったといいます。
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