小冊子レキシノワ四号では、北条時政と北条一族の繁栄を「迫力の三つ鱗ヒストリー」と題して特集しました。ここでは紙面で載せきれなかった北条時政の略歴を掲載します。
〇北条時政、降臨!!
北条時政は保延四年(一一三八)に生まれました。父は、時家とも時方とも時兼ともいい、母は伊豆掾伴為房の娘といわれています。源頼朝と反平氏の挙兵をするまでの事績はあまりよくわかっていません。
〇挙兵後
治承四年(一一八〇)に源頼朝とともに挙兵した時政は、石橋山の合戦で嫡子宗時を失います。頼朝は安房国(現、静岡県南部)へ落ち延び再起を図ります。時政は甲斐(山梨県)・信濃(長野県)の源氏を味方とするため、甲信方面に向かいました。この求めに応じた甲信の源氏が後に富士川の合戦で平氏軍を打ち破ります。
〇平氏滅亡後の朝廷との折衝
文治元年(一一八五)三月二十四日、壇ノ浦で平氏が滅亡した後、源頼朝と義経は次第に対立していきます。同年十月に義経の奏請によって頼朝追討の宣旨が下されると、時政は頼朝の代官として上洛しました。義経の追捕・義経に味方した後白河院の近臣に対する処分・京都周辺の治安維持などを目的としつつ、守護・地頭の設置を認めさせたといいます。ここに時政の政治的手腕が凝縮されていると思われます。
〇頼朝没後
頼朝生存時は、表立って政治に参加することの少なかった時政ですが、頼朝没後の動揺する鎌倉幕府を目の前にして、積極的にかかわるようになります。有力御家人の反発を招いた二代将軍頼家を制御するため、正治元年(一一九九)四月、時政・義時を含めた宿老十三人による合議制がスタートしました。
翌年四月には、従五位下遠江守に叙任します。この当時の貴族社会は従五位を登竜門としました。四位から五位を「大夫」といい、三位以上を公卿といいます。北条時政は伊豆の小豪族から、当時としてはありえない立身出世をして、六十二歳(数えだと六十三歳)で貴族になりました。
〇比企氏との対立
頼家の政治力を統制した時政は、一方で頼家の外戚比企氏と対立を深めていきます。建仁三年(一二〇三)八月に頼家が危篤に陥ると、頼家の嫡子一幡に関東二十八ヶ国の地頭職を、頼家の弟実朝に関西三十八ヶ国の地頭職を二分するよう提言しました。これに頼家と比企能員は激怒し、時政の追討を画策しますが、噂を聞いた北条政子が時政に伝え、逆に能員を誘殺します。さらに政子の命で比企一族と一幡を比企谷に滅ぼしました。
現在、比企谷には、妙本寺が建っています。妙本寺は能員の子供、能本が日蓮に帰依し、同地を寄進したからだといわれています。今も境内には頼家の妻、若狭局を祀る蛇苦止堂・嫡子一幡を祀る袖塚・比企一族の供養塔などが伝わっています。
〇実朝の後見人
頼家を将軍職から退け、実朝を新たな将軍に就けた時政は、将軍の外戚・政所別当として将軍権力を代行し、単署の下文で(形式的には実朝の意を奉じた形)御家人の所領安堵等をおこないました。
〇武蔵国をめぐって
元久元年(一二〇四)に時政と牧の方の娘婿で、清和源氏の武蔵守平賀朝雅を京都守護とし、翌年六月には武蔵国の有力御家人畠山重忠に謀反の疑いがあると称して、重忠を討伐しました。続いて平賀朝雅を新たな将軍に立てようとしますが、政子や義時の反対にあい、逆に政治生命を失います。同年閏七月、時政は出家し伊豆国北条に隠棲しました。
〇余生
出家し、法名を明盛と号した時政は、承元元年(一二〇七)十一月に願成就院に塔婆を建立するなどの記録は残りますが、十年後の建保三年(一二一五)に亡くなるまでの十年間は、生まれ育った伊豆国北条で心静かに余生をおくったと考えられます。享年七十八歳という長寿を全うしました。