長柄桜山古墳群の麓には平清盛の嫡男重盛の孫、六代の御墓がある(清盛ー重盛ー維盛ー六代)。
なぜこの地にそんな超名門サラブレッドの御墓があるのかというと、六代は平家滅亡後に平安京で捕らえられ、斬首される所を文覚の助命嘆願により一命をとりとめました。
そして六代は建久五年(1194)四月二十一日に鎌倉へやってきました。『吾妻鏡』建久五年(1194)四月二十一日条。「故小松内府孫子(惟盛卿男)六代禅師自京都参向、所帯高雄上人文覚書状也、偏依恩化、継命之間、於関東、更不存巨悪、矧亦於遂出家遁世哉之由、属因幡前司廣元申之云々」
およそ二ヶ月後の建久五年(1194)六月十五日には頼朝に対面。「将軍家招六代禅師對面給、無異心者、可補一寺別当職之由被仰云々」。異心がないのであれば一寺の別当を与えようと約束したという。
しかし頼朝死後に文覚が失脚。六代も謀反を疑われ、田越川の畔で処刑されたといいます。六代の死を悲しんだ村民によって墳墓が築かれ供養されたようです。