前回は「以仁王の乱の経過」を見ていきました。その中で諸国の源氏が一斉蜂起するキッカケとなった「以仁王の令旨」については、別で見ていくと述べました。そこで今回は「以仁王の令旨」を詳述していきます。
令旨そのものについて
「以仁王の令旨」は、「吾妻鏡」「平家物語」などに令旨の文章が掲載されています。しかし文章と令旨の形式から、信用できない偽文だとする意見がかつてありました。こうした意見に対し、今では文章そのものは実際の文面では無いけれど、令旨はあったはずだとする意見が主流を占めています。その理由の一つに、同時代の別の史料「玉葉」「山槐記」に「最勝親王の勅」と書かれていることがあり、最勝親王とは仏教の経典のひとつ「最勝経」に以仁王が自身を仮託した自称で、当時は令旨という呼ばれ方ではなく、こちらが一般的な呼称でした。
「以仁王の令旨」の真偽論
以仁王の令旨は、源平合戦につながる重要な内容だったため、古くから注目されてきました。この令旨の真偽に本格的に触れたのは、大正二年の八代国治氏「吾妻鏡の研究」です。八代氏は「以仁王の令旨」を偽文書と断定し、その後、丸山二郎氏が「以仁王令旨を読む」(日本歴史六八、1954)で八代説を補強しました。しばらく偽文書説が定説となっていましたが、石井進氏が「日本中世国家史の研究」で、文章は本来の形式とみなし難い面はあるものの、当時、以仁王による何らかの命令書は出されたと考えて良いという意見を提示しました。この石井氏の説は広く支持され、現在に至っています。
真偽論をまとめた平泉隆房氏
これら真偽の研究の推移を平泉隆房氏が「以仁王令旨考」(皇學館論叢13、1980)で詳細に述べておられます。ここでは、この平泉氏のまとめられた研究を参考に、以仁王の令旨の真偽について、簡単にまとめてみます。
八代氏が以仁王の令旨を偽文書とした根拠は、令旨の形式が、古文書学上の様式とかなりの相違が見られることです。確かに「吾妻鏡」「源平盛衰記」「平家物語」にあげられている「以仁王の令旨」は、令旨の原本が伝わらない以上、編纂物や軍記物語の性質から、後世に書かれたもので、信用は置けないとする姿勢は正しいように思われます。しかし現在では、文章そのものは正しい文書で無くても、当時の貴族の日記「玉葉」には「最勝親王宣」「一院第三親王宣」という命令書の存在が記されている以上、令旨そのものは存在したものと考えられています。
次に丸山氏が偽作の根拠の一つとして述べた「治承四年四月九日」という令旨の日付の問題をとりあげます。令旨は以仁王が園城寺滞在中に出されたという「愚管抄」の記述(※)から、以仁王配流の宣旨が出された五月十五日以降でなければならないと丸山氏は述べました。しかし平泉氏は「愚管抄」の記事が何を根拠に書かれたのかが不明である点。そもそもすでに令旨が出されていたから、挙兵計画の発覚につながり、以仁王配流の宣旨が出されたので、五月十五日以前に令旨が書かれたのは間違いないと述べ、丸山氏の説を納得できないとしました。
(※)「愚管抄」には、「三条宮(以仁王)、寺(園城寺)に七・八おはしましける間、諸国七道へ宮の宣とて、武士を催さるる文どもを、書ちらかされたりけるを、もてつぎたりけるに、」と記されている。
「延慶本平家物語」の源行家願文
そして平泉氏は、「延慶本平家物語」に収められている「治承五年五月十九日の源行家願書」を検討することにより、「吾妻鏡」所載の「以仁王の令旨」は信憑性が高いと述べました。この源行家願文をからめて近年、河内祥輔氏が「日本中世の朝廷・幕府体制」(吉川弘文館、2007)で、「以仁王の令旨」がいつ出されたのか?について論究しています。この令旨が出された時期に関しては、次回、取り上げます。
まとめ
以上、「以仁王の令旨」は、いつ出されたのか?という課題は残るものの、以仁王の文書そのものの存在は、間違いないと考えられています。このため源頼朝の挙兵はこの令旨の影響によって引き起こされたと断定してよいと考えられます。
※源頼朝は「以仁王の令旨」に応じたというより、各地の源氏にばら撒かれた令旨を、平氏が追及したため、追い込まれていき、挙兵せざるをえない状況に陥ったという視点もある。細川重男氏「頼朝の武士団」(洋泉社、2012)。