上総介広常は上総権介常澄の子で、上総国のトップとして君臨しました。
保元の乱・平治の乱では、源義朝に従い活躍するが、乱後に一族は内紛で分裂しました。
治承三年に平氏の家人伊藤忠清が上総介に任命されると、広常は激しく対立しました。平氏方の勢力に囲まれた広常は、安房国に逃れてきた頼朝に呼応して、上総国の平氏方勢力を掃討します。しかし『吾妻鏡』では頼朝のもとへ参陣が遅れたことを咎められ、二心を持っているのではないか?と疑われています。
富士川の戦いの後に、上洛しようとする頼朝に待ったをかけ、常陸国の佐竹氏討伐を進言しました。そして佐竹氏討伐で活躍しました。治承四・五年段階の頼朝勢力の中で、上総介広常が率いる兵は強大で、広常は横暴な振る舞いをすることがたびたびあったといわれています。
寿永二年(一一八三)十二月、広常は謀反を企てたとみなされ、鎌倉の頼朝邸(大倉邸)において、頼朝の命を受けた梶原景時によって謀殺されました。後に謀反の企てはなかったことがわかり、のこった一族は赦免されますが、上総国で大勢力を誇った上総氏は、その勢力を大きく後退してしまいました。