レキシノワVOL.01 東寺百合文書WEBのそもそも東寺とは?

レキシノワVOL.01 東寺百合文書WEBのそもそも東寺とは?

東寺百合文書について触れていますが、そもそも東寺(教王護国寺)とは?という所が抜けていましたので、ざっくり書いておきます。

 東寺は794年の平安遷都とともに建てられた官寺です。遷都事業を推進した桓武天皇は、奈良時代に仏教が政治に深く介入したため、これを是正しようとしました。そこで平安京では、国家が認めた東寺と西寺(現:廃寺)以外は、京内に寺院を建てることを許しませんでした。二つの官寺は、平安京の入口にあたる羅生門の左右に建てられ、鎮護国家の役割を担いました。

 桓武天皇の後に即位した嵯峨天皇は、遣唐使の一員として唐に渡り、大陸の仏教を学び、帰国した空海に東寺を任せます。真言密教の根本道場としてのはじまりです。

 空海は、仏教の教えの中でも密教を中心にすえました。このことから今も東寺の講堂には、密教の主尊である大日如来を中心に、曼荼羅が立体的に表現されています。

 東寺の本尊は、諸堂の中で最も早くに建てられた、金堂(国宝)に安置されている、薬師如来坐像(国宝)です。現在の金堂は、慶長八年(一六〇三)に豊臣秀頼によって創建時の規模を踏襲して造営されました。

 空海が住房を構えた場所は、御影堂(みえいどう)といい、こちらも国宝に指定されています。御影堂の南面には、空海の念持仏とされる不動明王坐像(国宝)が秘仏として安置されています。(非公開)。北面の前堂には弘法大師坐像(国宝)も安置されています。この坐像は、鎌倉時代の天福元年(一二三三)に慶派仏師の康勝が制作したものです。

 東寺のシンボルともいえる五重塔(国宝)は、寛永二十一年(一六四四)徳川家光によって再建され、現在の塔は五代目になります。総高約五十五メートルは現存する木造の塔としては、最高の高さを誇ります。

 鎌倉時代前期の建築と伝わっているのは、灌頂院の北門と南門です。ともに重要文化財に指定されています。

 このように東寺は、1200年を越える歴史を刻む中で、たくさんの文化財を育んできました。このため我が国随一の国宝を抱えています。平成六年(一九九四)には、世界遺産にも登録されました。

 東寺百合文書は、この東寺の歴史そのものを伝える文書だといえるのです。