『平重衡受戒之地』(京都市南区西九条北ノ内町)

『平重衡受戒之地』(京都市南区西九条北ノ内町)

寿永(じゅえい)三年(1184)二月の一ノ谷の戦いで捕えられた平清盛の子、本三位中将重衡(ほんさんみのちゅうじょうしげひら)は京都に送られた。

※中将の官位相当が四位のため、三位に昇った人の場合を三位中将と呼ぶ。そして資盛も三位中将のため、こちらは新三位中将と呼んで区別した。一門が高位高官に就いているのでややこしい😅資盛の父、貴公子維盛も三位中将😂

平重衡…寿永元年(1182)正三位(しょうさんみ)、前年に従三位左近衛権中将。

平維盛…養和元年(1181)従三位右近衛権中将。

平資盛…寿永二年(1183)従三位。養和元年(1181)に右近衛権中将。

壽永三年(1184)二月十四日にこのコンビニ付近にあったとされる八條堀川堂で取り調べを受けた。やがて鎌倉へ護送されるのだが、「平家物語」によると、その間に法然上人から受戒する。

⭕️『重衡卿、法然上人に相ひ奉る事』(延慶本平家物語)

「三位、上人に向かひ奉り、涙を流し、掌を合はせて泣く泣く申されける(この後、出仕や世務、栄華など述べる)」。そして注目は「就中、南都炎上の事、王宣と云ひ、父命と申し、世に随ふ道、遁れ難くして、衆徒の悪行を鎮めんが為に罷り向かひて候ひし程に、不慮に伽藍滅亡に及びし事、力及ばざる次第にて候へども、大将軍を勤め候ひし上は、責め一人に帰すとかや申す事なれば、重衡が罪業に成り候ひぬと覚え候ふ」と、南都焼討に記憶はめぐっていく点。

続けて「頭を剃り戒持ちなんどして、偏へに仏道を修行したく候へども、かかる身に罷り成り候ふ上は、心に意を任せ候はず。今日明日とも知らぬ身にて候へば、旦暮期し難く候ふ。何なる行を修して、一業助かるべしとも覚え候はず。心憂くこそ候へ」と述べる。罪業を一身に背負い、意に任せることのできない身。そして仏道で修行をしても助からないだろうという悲哀。1人の人間にこれほど大きな絶望がのしかかるのかという無情。

さらに言葉は続き「(前略)かかる悪人の後生助かるべき方法候はば、示し給はり候はばや」と申されたりければ、上人(法然)涙に咽びて、しばしは物も宣はず。

やがて言葉を発し「(前略)往生の得不得は信心の有無に依る。只深く信じて、努々疑ひを生し給ふべからず。若し深く此の教へを信じて、行住坐臥、時所諸縁を簡はず、三業四儀において心念口称を忘れずして、命終を期と為て此の苦域の界を出でて、彼の不退の土に往生し給はむ事、何の疑ひか有らむ」と教化し給ひければ」と。

そして「出家せぬ人も戒を持つ事、常の事なり」とて、頂に髪剃を充てて剃るまねをして、十戒を授けたという。

▶️レキシノワ講座9/14「屋島の伝説❗️」までのこぼれ話

※画像は2024.06のもの。暗くて🙇🏻‍♂️

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